僕は決して度量の広い人間ではないし、謙虚な人間でもない。
むしろネット上ではかなり生意気な人間と思われているようだが、本当の自分はそれほど生意気な奴ではないと思う。だからと言って決して人格者とは言えないことも事実だろう。
だが自分がプロとして対人援助に関わる場所で、利用者や家族に対して、傲慢にみられることがあってはならないと思っている。同時に仕事で関わる関係者との関係も、勝手に上下関係を作って、人を見て態度を変えることはしてはならないと思っている。
その理由は、若いころに小人物が権力を持ったと勘違いして偉そうにふるまう醜さを、嫌というほど知ったからである。
今のようにネット情報がある時代ではない当時、国からの通知はすべて市町村の行政担当課から介護事業者に流されていた。そうした時代の介護事業者に対する行政担当課の影響力は、今では想像ができないほど強いもので、社会福祉法人の若い一職員からすればそれはまさに、「御上様」であった。
その時代に、何かにつけ偉そうにふるまう役人がいる一方で、それとは反対に、若造ともいえる当時の僕に対しても、丁寧に接してくれるずっと年上の行政職の方がいた。そうした姿に触れて、後者のような人にならなければならないという思いを心に刻んだものである。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という諺は、対人援助という場でこそ実践しなければならない態度だと思ったものだ。
今、世間はコロナ渦に見舞われ、普通ではないことに満ち溢れているが、その中で介護関係者が今まで見せたことがない裏の顔をのぞかせたりしている。誰にでも嫌な面や異常な面があるのだろうが、その顔をどの場面で出すのかで、その人間の品性と度量が知れるというものだ。
算定特例をあたかも自分の権力のように、一方的に通告して実施するだけの介護事業所が存在したりする。計画変更をするのが当たり前のごとく、変更結果を通告するだけのケアマネジャーがいたりする。多職種連携や協働という言葉は単なるお題目に過ぎないのかと言いたくなる。そんなふうな勝手な振る舞いがこの業界に蔓延している。
介護施設は今、制限のオンパレードだ。面会制限・外出制限。それが当たり前だと思う人と、申し訳ないがやむを得ないと思う人の対応は自ずと異なる。その対応の仕方によって、利用者や家族の心の持ちようは変わってくるのだ。
利用者や家族にあたかも制限が施設の権限であるかのように横柄に命ずる人がいる。それによって利用者や家族は憤ったり、哀しんだり、あきらめたりしてしまう。そんなことは許されるのだろうか。
逆にこちらが恐縮するほど頭を下げて、申し訳なさそうに制限をする理由を説明してくれて、同意を求める人がいる。
同じ制限でも、伝え方で制限を受ける人々の心持は変わろうというものだ。対人援助に携わる関係者は、人の心を慮って伝えるという心配りを忘れないでほしいと思う。
特に制限を受けているのは高齢者の方であることを忘れないでほしい。その人たちは来年の桜を確実にみることができるのだろうか?その人たちは、あと何回自分の愛する家族と会うことができるのだろう?
職員は堂々と外から通ってきている場所で、なんの配慮もなくだらだらと面会制限と外出制限を続け、桜を見る機会も、愛する家族と会う機会も失わせる権利が誰にあるのだろうか。PCやスマホやタブレットを利用して、画面を通じたコミュニケーションをとれば十分だと言ってよいのだろうか。
そのような制限を続ける権限を持つ資格があなたにあるというのだろうか。
知性とは、生業(なりわい)や人にひけらかすために身に着けるものではない。困難に直面したときに、どう立ち向かうべきかを教えてくれるのが知性だ。普通ではない様々な特別なことをしなければならない今こそ、その知性を生かして人に優しい介護事業であることを望む。
勤勉、真摯、謙虚そして器の大きさ、それらのどれ一つが欠けても人の暮らしに寄り添う資格は無い。売名、不遜、おごり。どれか一つでも潜んでいれば、知識や技術も人を裏切る。
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