他人のことは解らない。過去のことならなおさらだ。
相談援助職が物知り顔に、誰かの相談に乗ったとて、そこで相談している人の心が見えるわけではない。相談者の気持ちが理解できたような気になっても、それは幻想にしか過ぎないのかもしれない。
だからこそ僕たちは援助を求める人に対し謙虚でなければならないと思う。己の心の中に、他人に対する傲慢さが存在したとしても、目の前の相談者に対しては誰よりも謙虚であろうと思う。
プライベート空間の自分と、仕事をしている自分は違ったって良いのだ。仕事に臨むもう一人の自分を作り上げることもプロの技量だ。
そのために常に自己覚知に努め、受容とは何かを問いかけつつ、答えのない答えを追い続ける。そうし続けることでかろうじて誰かのプライベート空間に踏み込むことが許されるのだと思っている。自分に甘えず、自分の全知全能を鍛えることによって、はじめて他人の心深く介入することが許されるのだと自戒している。それが僕のプロとしての矜持だ。
人が選ぶことのできる道が複数ある時に、どちらの道を選べば正解かなんて誰にも分らない。僕の正解とあなたの正解は違うのかもしれない。迷うのは当たり前だ。でも選ばねばならない。
だったら選んだあとはくよくよ他の道程の結果を考えずに、選んだ道が正しかったと思う方が良い。どうせ考えるならば、少しはましに思える方に考える方がよい。ときどきは信じたくなる方に考えてやらないと、自分の心がつぶされてしまう。
人の暮らしに向かい合い、結果を求めなければならない仕事に就いている人は、「強い人」だと思われる時がある。強くないとだめだという人もいる。
だが強い弱いは簡単に判断できる問題ではない。人はそれぞれある状況には強いけれど、別の状況には弱い。誰かを支える力もあれば、誰かに支えてもらわないと倒れてしまうこともある。それでよいのだと思う。そして支えるというのは、実際に手を貸すことだけではないのだと思う。
人を苦しめるものは、往々にして目に見えない何かである。暗闇の中での想像は、たとえ愛している人でも怪物にしてしまうときがあるものだ。
今僕たちは目に見えないウイルスと闘いながら、日々未知の事柄と相対している。そんな中ですべて正しく対応できる人なんているはずがない。しかしひとたび正しくない行動をとったと誰かに思われたら、たちまちネット上ではその行動を糾弾する言葉があふれ出てくる。
匿名という形で実態を隠した糾弾の言葉は、それだけで暴力だ。そんなものを気にする必要はないし、そんなものに負けないでほしい。
真実を見極めることが大事だ。暗闇の中で愛する誰かを怪物と間違えないように息を継ぎたい。
週末に休みを取れる人は、仕事のことをすっかり忘れて、一日中好きな映画でも見たほうが良いかもしれない。ギスギスした心を安らげるように、童心に還ってみるのもいのかもしれない。(参照:今話題の鬼滅の刃(きめつのやいば)・全26話も無料で見ることが出来ます。)
北海道は今からが桜の季節だ。風にそよぐ桜の花びらを見つめて、少し先にある、「光」を感じても良いのではないだろうか。
絶望とは、我々を殺すためではなく、我々の中に新しい生命を呼び覚ますために存在するのだ。
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