新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言が続く中で、介護施設の多くは、「面会制限」・「外出制限」を継続している。
その期間は1月以上になっている施設が多く、少なくとも緊急事態制限が解除されるまでは制限を続けると考えている施設管理者が多い。
入所利用者を感染から護るために、そうした措置を続けることはやむを得ないことだと思う。ただし同時に長期間の制限ストレス対策を同時に取るべきであると、このブログでは再三指摘しているところだ。
面会制限が哀しい無理心中につながったケースもあるのだから(参照:面会制限している施設から退所させた母親と無理心中というニュースに触れて)、そうした悲劇が2度と起きないように、スマホやタブレットを利用した外部の人とのコミュニケーションを取れるようにすることは当然であるし、施設内の活動性の低下に注意する必要もある。外出支援も工夫してできることはないかと考えるべきであり、北海道ならこの時期、桜を見ることができるように少人数でのドライブなどをできるように工夫すべきだ。
国の宣言に基づいて、何でも禁止にすることは素人でもできる。しかし制限の必要な暮らしの中で、できることを見つけ実現する仕事こそプロの仕事である。
そもそも介護施設の面会制限や外出制限自体を、国が命じているわけではない。それらの制限は施設経営者や管理者の判断で行っていることであり、その状態が過度になれば権利侵害の問題につながることを常に意識すべきである。
何とかできませんかという声に耳をふさぐ介護施設は、冷たいブラックボックスだ。そうならないように管理者や職員すべてが、利用者にとって今何が必要なのかを、リアルタイムで考え続ける必要がある。
何度も云う。できないことに甘えるのではなく、できる工夫を続けるのがプロの仕事なのである。
このような状況の中で、いま問題となっているのが、「いまわの際の別れ」を邪魔しても良いのかという問題である。
特養をはじめとした居住系施設では、面会制限の真っ最中にも、「看取り介護」の対象者が居られる。その方が今まさに最期の時を迎えようとしているときに、感染予防のために面会制限中であるという理由で、家族の面会を断ることに何の疑問も感じていない施設関係者は対人援助者としての適性に欠けると言ってよいだろう。そんな冷酷な人が介護に関わってよいわけがないのだ。
看取り介護の意味の一つは、残された時間・お別れの時間を意識したエピソードづくりである。その機会を奪うような面会制限があってはならない。ネット画像を通じてのコミュニケーションだけで、今わの際のお別れが十分にできるわけがないのだ。
息を止める最期の瞬間に、手を握って看取ることができる愛する家族がそこに居るにもかかわらず、面会制限中だからそれは駄目だと断る鬼にような心を持つ人は、介護の仕事を続けるべきではない。
施設の中で看取り介護を受けるケースの大半は個室対応なのだから、遺族となる方々と他の利用者が接触せずに面会することなんて簡単にできる。面会する方には、ガウンやマスク・ゴーグルなどを装着して施設内を移動していただけばよいだけの話だ。
そもそも職員は普通に外から通ってきているのに、看取り介護対象で、今まさに息を止めようとしている方の家族まで、頑なに施設の中に入らせないという考え方がどうかしている。そんな考えは浅はかすぎる。
国は面会制限を指示していないのだから、その特例も示すことはない。だからこそその特例は、施設自身が考えるしかないのだ。面会制限中も常に特例を考えて、面会できる方法を考えるのは施設の務めだ。
面会制限をこれだけ長期間続ける権利が、施設自体にあるのかという議論も存在していることも忘れてはならない。
どちらにしても人の権利を制限する側に、何の配慮も工夫もなくなれば、そこでは必ず誰かが不幸になるのだということを思い知るべきである。
理想の介護事業者をお探しの方は、こちらに無料登録ください。
※4/4〜新しいブログ「masaの徒然草」を始めました。こちらも是非ご覧ください。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。
・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。
・masaの最新刊「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。