新型コロナウイルス感染症のために、世界中が大変な状況になっているのはわかるが、『自分さえよければ良い的な思考回路』によって、差別的言動を正当化するような風潮に傾いているのが少し気になる。
自分がウイルスに感染しているのを知りながら、悪意を持ってそのウイルスを拡散しようとするような輩は糾弾されてしかるべきである。ウイルス感染リスクが高い場所に、何の対策もなく出入りして感染するような軽率な行動があるとすれば、そのことは非難されてよい場合もあるだろう。
しかし不運にしてウイルスに感染した人が、すべて悪人のようにレッテルが貼られ、感染していない自分こそが正義で、正しい人間だと思い込むのはどうかしている。
ましてや感染者が多い地域や感染した人や家族を、蔑視するような言動が許されてよいわけがない。
感染に注意しながら通常の日常生活を送っていたにもかかわらず、どこで感染したかも不明な状態で、感染症を発症してしまった人もいる。テレワークのできない職業では、混みあう電車で通勤を続けなければならない人も多いはずだ。そういう意味では今感染していない人も、それは偶然と幸運の結果でしかないのかもしれない。
そんな状況の中で、感染者数が多い地域の人が、自分の生活圏に入り込むことを許されないことのような表現で罵倒するのは行き過ぎであると思う。
感染予防のための行動自粛要請に応えることは国民の義務ではあるが、よんどころなく移動しなければならない事情は存在するのだから、その際は感染予防対策に十分配慮するように一人一人が注意して、自分が感染源にならないように促すだけで十分じゃないのだろうかと思う。
少なくとも、「〇〇の人間は来るな」的な表現が日常化して、あたかもそれが正論化される社会は危険である。それが許される風潮があるとすれば、それはどこかが狂っている。何かが壊れかけているとしか言いようがない。
そうした危惧や、危機感を抱くことは間違っているのだろうか?
ウイルス感染に関するあらゆる差別の延長線上には、感染者に寄り添って対応する医師や看護職員、介護職員等とその家族に対する差別と偏見が必ず生まれてくるのは明らかだ。それが正当化される社会は怖い社会だ。
感染者や、その人たちに対応する人に対する差別的表現を許しておくことは、この国の根を腐らせることにしかつながらない。そうであってはならないと思う。
感染予防対策は大事だ。私たち一人一人が自覚を持って、自らを護り他者に迷惑を及ばせないように行動自粛することも大事である。だからと言って感染者に対して、過度の自己責任を求めたり、糾弾したりする必要はない。もっと優しい社会であってほしい。
今こういう時だからこそ、人に優しくする心を失わないでほしい。人が人を思いやるところから、感染予防は始まるのではないかということに、常に思いを至らせてほしい。
人類は様々な困難に打ち勝ってきた歴史を持っている。その時、困難を克服した一番の要素とは、決して憎しみではなかったはずである。人類が困難を乗り越える根底につめにあったものは、人間愛であったのではないだろうか。
人を蹴落とす競争だけで人は豊かになれないのである。人が豊かに反映する根底には、必ず人間愛と、それに基づく知恵があったということを忘れないでほしい。
愛は地球を救うという言葉は、どこかのテレビ番組の謳い文句を超えて、唯一無二の真実を表現しているかもしれないのである。
理想の介護事業者をお探しの方は、こちらに無料登録ください。
※4/4〜新しいブログ「masaの徒然草」を始めました。こちらも是非ご覧ください。

北海道介護福祉道場あかい花から介護・福祉情報掲示板(表板)に入ってください。
・「介護の誇り」は、こちらから送料無料で購入できます。
・masaの最新刊「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」(2019年1/20刊行)はこちらから送料無料で購入できます。
※TSUTAYAのサイトからは、お店受け取りで送料無料で購入できます。
※キャラアニのサイトからも送料無料になります。
※医学書専門メテオMBCからも送料無料で取り寄せ可能です。
※アマゾンでも送料無料で取り寄せられます。