死生観とは、「死あるいは生死に対する考え方。またそれに基づいた人生観。」である。

誰かの死の場面に向かい合う看護や介護の仕事において、それぞれの死生観がその仕事に影響してくることはあるのかもしれない。だから誰かの人生の最終ステージに関わる、「看取り介護」の教育として、「死生観教育」が必要だと考える人がいることは理解ができないわけではない。

しかし今現在、あなたが胸の中に抱いている人生観とはどういうものだろうか?それは誰かから教えられて、あなたが得た考え方だろうか?同じ死生観を持たねば看取り介護の実践の場で何か支障が生ずるとでもいうのだろうか?

僕はどうも違うような気がする。少なくとも僕の胸の中に、「死生観」と言えるような人生観があるとすれば、それは誰かから、「こう考えなさい」と教えられたものでもなければ、ましてや押し付けられたものではないと思う。

それは自分が今まで生きてきた中で、ごく自然に獲得した観念であり、様々なエピソードを刻んだ経験が大きく影響しているのではないかと思える。様々な死生観を持つ人たちが、様々な形で看取り介護に関わってよいのである。それは決して統一しなければならない観念ではない。

だからあくまで僕の立場は。看取り介護の教育に、「死生観」を教育することなど必要ないと思っているし、教育したって意味がないだろうと思っている。そもそも終末期支援に関わる関係者が、同じ死生観を持つ必要はないのだ。

先日もある知り合いの方からこの問題に関連して相談を受け、回答したやりとりが次のスマホ画像だ。
死生観
死生観2
こんなふうにして、僕の気持ちを受け入れていただきほっとしている。死生観を教えなければならないなんて言う呪縛から抜け出したときに、本当に看取り介護の場で伝えるべきものが見えてくるはずだ。

それは旅立つ人がこの世の中で生きた証を感じることができるように、様々な思い出を紡ぐ人生の最終ステージを支援するという意味だ。命の期限がある程度見えている中で、この世でご縁のあった方々と、限りある時間を意識する中で、最期のエピソードを刻むのが看取り介護・ターミナルケアである。

そこには様々な人が関係してくるのだから、様々な考え方があってよい。人それぞれの思いが交錯しながら、生きるとは何か、死とは何か、人は何故この世に生かされているのかを思い、感じられるのだと思う。それが人間社会だ。

人にはそれぞれの様々な死生観があり、看取り介護の現場に関わる職員は、それらの様々な死生観や価値観に受容的に寄り添うだけで良い。こうした死生観を持ちなさいと言う教育などいらないのだ。そのことは今から12年も前に書いた、「死生観の教育って何をするの?」という記事でも書いている。あらためてリンクを貼った記事を読んでほしい。

僕たちが向かい合うのは人間そのものである。その人たちの暮らしの中に深く介入するのが対人援助だ。そこに居る人々とは、個性の異なる様々な人生を送ってきた人たちであり、みんなが同じ価値観を持っているなんて云うことはあり得ない。そしてそれぞれの固有の価値観は、善悪とか良否判断ができる問題ではなく、人それぞれの個性であり、人生観であると受け入れるしかないのだ。

そうした人生観にかかわる問題を教育しようとするのは不遜だ。

一番大事なことは、看取り介護とは、対象者を最後の瞬間まで安心と安楽の状態で支援する行為であるということを忘れないことだ。そのための基礎知識と援助技術を持つことであり、「生きる」を支える姿勢を失わないことである。
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