今日も僕は旅の途上にある。これから東京都内の社会福祉法人さんの職員研修のために、羽田空港に向かう機上からこの記事を更新しているところだ。

今回依頼された研修は、全3回を1クルーとしたもので、今月から12月にかけて月1回120分講演を3回行う予定になっている。1回目と2回目は介護事業におけるサービスマナーをテーマにして、最終回は看取り介護がテーマとなっている。

実はこの二つのテーマは、全く別テーマではなく密接にリンクしている。なぜなら日ごろのマナー意識のない特養で、看取り介護を行うのは間違っていると思うからだ。

人生の先輩に対する敬意を込めて、礼儀正しい対応ができる人間にしか、「死」という厳粛な時期に向かう人へのかかわりなどできないのではないかという疑問がある。真摯に人の命に向き合うという意味は、プロとして節度を持って、正しい対応方法で日ごろから関わりを持つ人であることが求められるという意味だと思うからである。

例えば、ホスピス・緩和ケア病棟に務めている看護師の方々が、「傍らに誰かがいると、痛み止めがいらなくなるのよね。」とおっしゃることがある。

まさにそれは「人間関係」という麻薬効果ではないだろうか。

だからこそ傍らにいることが許される関係性を作らねばならない。関係性のない誰かが側にいたとしても、そんな風な効果は現れない。愛せない誰かが傍らにいても、そんな麻薬効果が現れることはないからである。

しかし家族や親族以外の人間が、職業を通じて出会った誰かと人間関係を築こうとするならば、プロとして真摯に礼儀正しく顧客である利用者に向かい合うということでしか、真の関係性は構築できないと思う。マナーと節度をもって顧客に接するという基本姿勢がそこにはなければならないと思う。そういう基本姿勢を日常的に貫くからこそ、看取り介護という、「人生の最終ステージを生きる場」に参加できるのではないだろうか。

そうであるがゆえに、看取り介護・ターミナルケアを、対象者が終末期になってから以降の支援行為と考えることは間違っていると思う。

看取り介護とは、誰かを人として愛し・敬い・心を寄せながらかかわっていった先に、たまたま必要とされる支援行為で、最初からそれを目指すものでもなければ、その時期になってから求められるものではないということだ。

ところで最近、「看取り師」と名乗る人が現れてきた。その人たちは、「看取り」の意味を知っているのだろうか?

私たちが思いを込めた言葉を安易に略したり変えたりしないでください」で指摘したように、看取り介護は終末期支援を表す言葉だが、看取りは必ずしも終末期支援を表す言葉ではない。

いうなれば「看取り師」とは「看護師」と同じ言葉という意味にしかならない。しかしその名称を名乗っている人は、自分が看取り介護・ターミナルケアの専門家だと自負している。

それは誰かの終末期に専門に関わるという意味なのか?そんな専門家が求められていると本気で思っているのだろうか?

回復不能な終末期と診断された人に、その時期だけの支援を行うために、おっとり刀で駆けつける専門職が求められているとでもいうのだろうか。

勿論、終末期の身体状況の変化等の専門知識を身に着けて、それに対する正しい対応方法を身に着けることは大切だ。しかしそれは看取り介護を行う専門家として求められるのではなく、介護支援を職業とするプロとして求められるのである。

だからことさら「看取り師」を名乗るの人を、僕は過度な自己顕示欲を現している人としか思うことはできない。

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