大型の台風10号がお盆の日本列島を直撃することになった今日は、74回目の終戦の日である。

今日行われる政府主催の全国戦没者追悼式は、戦後生まれの天皇陛下が初めてお言葉を述べられる追悼式でもある。そのことを想うと、時代は確実に変わってきていると言えるかもしれない。(※ちなみに今上陛下と筆者は恐れ多いことに同い年である。)

戦争体験のある人が減り、近い将来確実にそれらの人がいなくなる日本において、戦争の記憶を風化させてはいけないという声も根強い。しかし終戦から15年後に生まれた僕に、その戦争を語るなんてことはできない。

ただ僕が働く場所には、たくさんの高齢者の方が存在し、数多くの戦争体験を持っている人が少なからずいる。しかしそれらの人は、いくらお話し好きの人でも、戦争中の話をすることは少ない。中には戦時中の記憶を一切封印している人もいる。・・・それだけ悲惨な体験の時期だったのではないだろうか・・・。

戦争を体験した人たちは、日常的に愛する誰かとの突然の別れを経験してきた人たちである。こんな風に文字にするのはたやすいが、それがいかに哀しみと慟哭に満ちた体験かということに思いを馳せるとやりきれなくなる。

それに加えて、物がない貧しさや、食べるものがないひもじさ、自分の命がいつ失われるかもしれない儚さを毎日体験してきた人たちが介護施設にはたくさんおられる。あの戦争を生き延びたという思いを持つ人たちにとって、「命の尊さ」というものは、僕たちが思うそれよりももっと重たいものなのかもしれない。

それらの人たちの晩年が、少しでも豊のものになってほしいと思う。それは金銭と物質的な豊かさではなく、心の豊かさという意味である。せめてあの悲惨な時期に生き延びた人たちが、「長生きしてよかった」と思われる時期にしたい。そのためにできることがあるし、しなければならないことがある。

それらの人達の哀しみや苦しみを見逃さずに、そこに寄り添う勇気が必要だ。それが介護の本質だと思う。

「こんなことになるなら、あの時に死んでおけばよかった」と思われる社会や地域であっては、あまりにも悲しい。

そうであるにもかかわらず、つい最近も介護施設における虐待が報道されている。人手が足りなくて、やりたくても十分なことができないという現実があることはある程度理解できる。しかし人が苦しんでいるのがわかりきっているのに、それを無視して放置することなんて理解できない。どうしてそんなことができるのだろう。

40度近い熱が出ていた人を放置し、床ずれができて痛がっている人を放置し、処方薬を本人以外に投与し、多数の入所者に身体拘束をしていた熊本県菊池市の有料老人ホームの職員も、人の子であり人の親であるはずだ。介護の専門職と言う前に、人として何が問われているかを考え直してほしい。

介護サービスの場で、僕たちの手を必要としている人たちがいる。しかしその人たちがいるおかげで、今この日本の繁栄と平和があるのだ。

明日の食べ物の心配をする必要もなく、命の不安に毎日おびえなくともよい環境。大切な人がいつ目の前からいなくなるかを心配しなくてよい日常。それは自然発生したものではなく、戦中・戦後を生き抜いた人たちが努力して整えてくれたものである。

そういう感謝を忘れないための日が、「終戦の日」である。戦争を知らない世代に、そのことを伝え、すべての人の命と平和に敬意を払う日が、この日ではないのだろうか。

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