先週木曜から上京し、東京飯田橋〜浜松と移動しながら講演を行ない、昨日の夕方北海道に帰ってきた。台風の影響が心配されたが、飛行機も新幹線も定刻運航で、講演に影響が出ることはなくホッとしている。

飯田橋と浜松の両会場とも、100名を超える方々に受講していただいた。暑い中、会場まで駆けつけてくれた方々に、この場を借りて改めてお礼を申し上げたい。

飯田橋講演は、テーマが「看取り介護」で、4時間の講義と1時間のシンポジウムの長丁場だった。会場で用意した僕の著作本、「看取りを支える介護実践〜命と向き合う現場から」は全冊売り切れてしまって、購入できない方がいて申し訳なかった。会場で購入できなかった方には、文字に張り付けたリンク先より取り寄せいただきたい。

来週の月曜日も島根県松江市で看取り介護講演を行なうが、そちらも5時間の長時間講演となっている。本も販売予定なので、是非会場で手に取ってご覧いただきたい。

死者数が増え続けるわが国において、看取り難民を生まないためにも、様々な場所で看取り介護・ターミナルケアが実践されなければならず、今後も看取り介護をテーマにする研修会は、全国様々な場所で求められていくと考えられる。そして看取り介護・ターミナルケアについてレクチャーできる講師も増えていくことと思われる。

そうなると看取り介護に関して、様々な考え方が示されるようになるだろう。勿論考え方がいろいろあっても良いし、多様な価値観の中から、受講者自身が看取り介護に関わるに際して、最もふさわしい方法論を選ぶことができれば、それが一番良いことだと思う。

しかし様々に示される考え方の中で、看取り介護を受ける人やその家族が不在の、「看取る側の論理」が前面に出され始めていることに危惧の思いを持ち始めている。本当にそれが看取られる人の思いであるのかということを考えてもらいたい・・・。

例えば以前にも紹介したが、息を止める瞬間に傍らに誰かがいないとしても、日常の支援がきちんとできておれば、それは「孤独死」ではなく、「ひとり死」であるという考え方が示されるようになっている。(※参照:在宅ひとり死を他人が推奨する社会は怖い社会かもしれない

そうした考え方があっても良いと思うが、この考え方を押し付けるのはいかがなものかと批評してきた。そもそもこの考え方が示された背景には、在宅独居の方を自宅で看取る際に、24時間巡回サービスなどの社会資源をフル活用したとしても、最期の瞬間までは看取ることができないケースが増えることが確実な社会の中で、国民一人一人に死の瞬間を誰かに看取ってもらうことができないこともあるという覚悟を促しているという意味があることを知ってほしい。

それが決して国民ニーズとかいうわけではないし、大多数の人が賛同すべき、あるいは賛同できる考え方とも限らないのである。

しかし恐ろしいことに、「ひとり死」を推奨するだけではなく、その延長線上に、「看取り介護だからと言って死の瞬間を看取ることに価値があるわけではない」とか、「死の瞬間を看取ることには意味がない」と言い始めている人がいて、その考え方を聴いて、闇雲にその価値観を受け入れてしまう関係者が、「目から鱗です」という意見を述べていたりする。それは極めて危険なことだ。

必ずしも息を止める瞬間、逝く瞬間を看取らなくとも、必ずしもそれが問題ではなく、一番大事なのは終末期という時期の日常支援であるという考え方は理解できる。しかしそうだからと言って、「逝く瞬間を看取ることにほとんど意味はない」と考えるのはどうかしている。それは逝く瞬間を看取ろうとしない人々の言い訳でしかない。

例えば下記のアンケート結果を見ていただきたい。
看取り介護アンケート結果
このアンケートは5年前にも実施し、昨年改めて再調査したものだが、『介護が必要な人が周囲に支えられていれば、旅立つときに側に誰もいなくとも、それは孤独死ではなく「ひとり死」であるといわれ始めました』という前提条件を示しているにもかかわらず、過半数を超える人が旅立つ瞬間に、「親しい人には側にいてほしい」と回答し、かつ「誰でも良いから側にいてほしい」という人も5.8%とはいえ存在するわけである。

しかもネットアンケートに答えられる年齢層の人より上の世代の人は、この数字がもっと高くなると予測できるのではないだろうか。つまり我々が介護施設等で関わる看取り介護対象者の多くの方は、理屈はともかくとして、息を止めるその瞬間に誰かが側にいてほしいのである。

少なくとも、「側に誰かがいてほしい」と答えた人にとって、「旅立ちの瞬間に傍らに誰かがいる」ということは、決して意味がないことではないし、最も求められることであるかもしれないわけだ。それを否定するような考え方があってはならないのである。

僕が特養で看取り介護に関わってきた経験から言えば、「逝く瞬間」を看取ることは、旅立つ人だけではなく、遺された人にも意味がある行為である。

旅立っていく人を家族が傍らで看取ることができないケースがあるが、その際に看取り介護対象者が旅立った後に駆けつけた家族が尋ねることは共通している。それは、「どんなふうに逝ったの
?」・「苦しまなかったかい?」ということだ。

その時、我々が家族に替わって旅立つ瞬間を看取ることができたからこそ伝えられる事実がある。その事実によってしか伝わらないものがある。それは決して無駄なことではないし、目指すべき看取り介護の在り方の一形態である。

それを否定するかのような看取り介護講演は意味がないと思う。

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