大阪の地震から丸一日が過ぎて、被害状況が伝えられてきた。

それによると4名の尊い命が犠牲になったそうである。亡くなられた人の中には、通学途中の9歳女児も含まれている。

人の命の重みは、幼い命であっても、高齢者の命であっても、それだけで変わるものではないが、残された親御さんの気持ちを思うと、幼い我が子を失う哀しみはいかばかりのものであろうか・・・。亡くなられた女児は当日の朝、挨拶当番のために、いつもよ10分早く家を出て被害にあったそうだ。

たまたまその時間に地震が起きて、その時にたまたま通っていた道の傍らに違法建築のまま放置されていたブロック塀があったという、考えられないような不運と不幸が織り交ざって被害にあうなんて・・・。本当に可哀そうに思う。神様も悪戯が過ぎる・・・。

あの3.11では、2万人以上の命が失われ、その時に僕はこのブログで、『その死とは2万分の1の死ではなく、あの日から今までに、「1人が死んだ事案が2万件以上あった」という意味である。そしてその周辺には、残された数多くの方々の哀しみが無数に存在していて、その傷跡がうずき続けているなかで迎える4年目のこの日ではないかと思う。』と書いた。

昨日の地震では、「1人が死んだ事案が4件あった」ということになろうが、そこで生まれる哀しみの深さは計り知れない。その慟哭はいつまで続くかも予測できない。

いまはただ、そこで亡くなられた命を惜しみ、安らかなれと頭を深く垂れて祈りを捧げることしかできない。

そしてこのような時だからこそ、命の尊さとその重みを今一度考えたいと思う。

命ある人に向かい合う職業の重みもまた問い直したい。

対人援助という職業に携わる我々が、命の重みやはかなさ、尊さを意識して日々の仕事に向き合っているだろうか。置かれた環境や身体機能の違いに関係なく人を敬っているだろうか。能力の違いで、知らず知らずのうちに人を差別視していないだろうか。

そもそも自分が職業の中で向かい合う人を愛おしく思い、真摯に寄り添うことができているだろうか。

その思いを振り返って、あとから悔やんでも、命が失われた人は二度と戻ってはこない。その人に対して、そのあとにできることはない。だから日々の営み、日々の関わりに悔いが残らないようにしたい。

そのことをたくさんの仲間と伝え合い、同じ思いを持つ人の輪の中で、幸せや笑顔の樹形図を描く方法論をたくさん見つけていきたい。

そんな風に思い続けている昨日から今日にかけてである。

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