ケアプランの標準化という言葉を耳にすることがある。
それはケアマネジメントの質の差をなくしていこうという意味なのだろうし、介護支援専門員の資質の差を小さくしていこうという意味であろうと思う。
確かに介護支援専門員ひとりひとりの資質の差は大きい。この人のおかげで多くの地域住民の暮らしの質が高められていると思えるような素晴らしい仕事をしている人がいる反面、平気で囲い込みプランを作成して、利用者の利益より自分の所属事業所の利益しか考えないような人も存在する。
知識や技術面での質の差も大きい。優れたソーシャルワーカーと評価できるケアマネジャーが数多くいる反面、ソーシャルワークの基礎知識や援助技術を全く持たないケアマネジャーも存在するのも事実だ。
しかしそうした個人の資質の差を、ケアプランの標準化という方向で改善することは不可能だろうし、個人の資質の差が存在する限り、ケアプランの標準化は単なる定型化した機械的ケアプランの大量作成にしかつながらないのではないだろうか。
ケアマネジャー全体の資質を高め、個人差を縮小していくためには、入り口の改善が不可欠だ。資格取得のための実務経験の見直しや、試験というハードルの引き上げが不可欠だろう。それはケアプラン作成という実務以前の問題である。
居宅サービスに限定してケアプランの標準化を考えると、問題はもっと大きい。居宅サービス計画は利用者に結び付ける社会資源を抽出し、その利用スケジュールを組み立てる構造になっているが、利用者に実際にサービス提供する事業所の考え方も、サービス提供方法も様々である。
サービス担当者会議で、介護支援専門員と居宅サービス事業所の担当者との、支援の方向性の統一を図ることはできたとしても、実際に利用者に提供されるサービスは、すべての事業者で統一されたものではないし、そのレベルにも差が生ずる。
例えば利用者に週2回の通所介護の利用が必要だとした場合でも、A事業所のサービス内容と、B事業所のサービス内容は全く同じではない。機能訓練の方法も、ADL支援の方法も異なってくる中で、通所介護を週2回利用するというスケジュールはあまり意味のあるものではなく、どの事業所のサービスを、どの程度利用者に結び付けるのかというマネジメントのほうが重要である。これは標準化できる問題ではないだろう。なぜならそれは個別化という問題だからである。
このように居宅サービスの各事業所ごとのサービスの質に差がある状態で、ケアプランの標準化を図ってどんな意味があるのかという疑問にも行き当たる。
そして現実を考えたとき、すべての介護サービス事業所のサービスの質など均等化できるわけがないことに気づく。そうであればケアプランの標準化など、ほとんど意味のないものであり、本当に求められるのはケアプランの個別化であり、その中で個々に利用者の暮らしぶりがよくなるように、支援の質を高めるということのように思う。
学者などが盛んに「標準化」を推奨するのには訳がある。彼らはケアマネジメント実務に携わって、利用者の暮らしの質を高めることを生活の糧にしているわけではないので、別な評価軸を作ってケアマネジメントを評価しなければ、「おまんまの食い上げ」につながりかねないのだ。そのため学者の物差しでケアマネジャーの仕事ぶりを測ることのできる標準という名の定型を構築しようとするわけである。
それらの考えは、利用者の暮らしの質とは必ずしもリンクしないことになる。このことはケアマネジメント実務に携わる介護支援専門員がしっかり理解しておかなければならないところである。
騙されてはならないのである。
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