地域包括ケアシステムとは、住み慣れた地域(自宅とは限らない)で暮らし続けるために、心身の状態に応じた住み替えを勧めながら、医療や介護のみならず、福祉サービスを含めた様々な生活支援サービスが日常生活の場(日常生活圏域)で適切に提供できる体制のことを言う。
しかし医療や介護や福祉サービスについてもその財源には限りがあるのだから、できるだけお金がかからないようにすることが前提とされている。
そのため医療費もできるだけ抑制しなければならないので、診療報酬改定では、入院期間をできる限り短くして、回復期の一部や慢性期の医療は、医療機関に入院したまま行うのではなく、地域における暮らしの場に戻って、そこで外来治療を中心にして行おうというものである。このようにして慢性疾患を抱えた高齢者については、できるだけ医療機関に入院せず、地域の中で慢性疾患対応を行い、身体機能の低下を防ぐサービスは積極的に取り入れ、それでもなおかつ心身の機能低下による生活障がいが出現した場合には、介護サービスや福祉援助でそれらを補う必要がある。
さらに死者数が増加し続けるわが国では、死ぬためだけに医療費をかけないようにすることが求められており、死ぬためだけに医療機関に入院するのではなく、地域の暮らしの場で死の瞬間を看取ることが重要な課題とされている。そもそも医療機関のベッド数は、死者数が増えることに対応して増えるわけではなく、むしろ減っていくので、地域で看取り介護の体制がなければ、「看取り難民」が生まれるのは必然の結果であり、その数は2030年で47万人にのぼるとされている。
その時に「看取り難民」とは何ぞやという疑問が生ずる。人は必ず死ぬし、どこでも死ねるのだ。そうであれば死ぬ瞬間がどこで、どうあろうと問題はないのではないかという議論がある。
しかし人の死に方は様々であるが、人は死ぬ瞬間まで人は生きているのだ。尊厳を持った人として生きる姿が死の瞬間まで続くのだ。そうであるからこそ、死の瞬間をどこで、どのように迎えるかが問われてくるのであり、人としての尊厳を護りながら、できるだけ不安な思いを抱えることなく、できれば安楽に、生きてきて良かったという思いを持てる形で「看取る」ということは、求められて良いことだと思う。それは決して過度な要求でも、ぜいたくなことでもない。
そういう意味で「看取り難民」とは、死の瞬間を本人が望む状態で迎えられない人のことをいうのではないかと思う。その中には、生から死につながる場面で、必要な介護を受けられずに苦痛と悲嘆の中で死んでいく人の状態も含まれてくるのではないだろうか。そのような死に方が、「仕方ない」とされる社会は寒々しく恐ろしいと思う。
そんな社会にしないためにも、多職種協働による暮らしの場での看取り介護が求められてくる。
死を間近にした人が暮らす様々な場面で、様々な場所で看取るためにも、保健・医療・福祉・介護連携が求められてくるわけであるが、この多職種協働が機能するために、「顔の見える関係」が必要だと言われる。それを否定する何ものもないが、一方で僕は、顔の見える関係だけで多職種協働が機能すると考えるのはずいぶん能天気であるとも思う。
顔の見える関係は、あくまで入り口に過ぎず、それをきっかけに「物を言い合える関係」まで発展させないと多職種協働など絵空事である。バックグラウンドや法人が異なる様々な職種がどう優れたチームを作るのかが一番の課題であるが、チームの中で医者に遠慮してソーシャルワーカーがものを言えなかったり、医療関係者の言葉を介護関係者が理解できないということであっては困るわけである。
そうしないためには、場合によっては相談援助職や介護職の側からも、自分の専門領域については、医師や看護師や理学療法士等にコンサルテーションを行うことができる能力が求められる、そのためにはそれなりの知識と技量が求められるのである。
多職種協働チームにおける相談援助職の役割りは何だろう。それは単に居宅サービス計画を作成したり、利用者の相談に乗るだけではなく、他の職種と比べ、利用者と密接にかかわる場面が多い職種であるがゆえに、他の専門職が気づかないような利用者の訴えや思いをくみ取り、それを本人に代わって周囲に伝えていくような代弁機能が、他の専門職からより強く求められるのではないだろうか。その時医療職種にその思いを伝えるコミュニケーション能力は、最も求められることだ。
そのためにも日ごろ、医師をはじめとした医療職種(看護師を含む)の方々が何を考え、何を課題と認識しているのかを知ることは必要だ。福祉・介護職の人々が、医療関係との合同研修に参加する意味はそうしたところにもあるのではないだろうか。
つい最近も、東京大田区でそのようなセミナーに参加することは「一人称の死を考える」で紹介したばかりである。そのセミナーでも大変貴重な学びをいただいたし、あらたなつながりを得るという貴重な機会にもなった。本当にありがたい機会だった。
同じように医療職の方々と、福祉・介護職の方々が一堂に集って語り合える機会が4/29(日)〜4/30(月:祝日)にある。メインテーマとして「いのちと生活を支える医療介護多職種チームの使命〜病院・行政・市民とともに取り組む街づくり」を掲げた、日本在宅医学会 第20回記念大会は、品川のグランドプリンスホテル新高輪・国際館パミールで行われる。
詳細は、パンフレットを参照いただきたいが、僕も微力ながらこの学会に協力している。

第1日目(4/29)の午前の拡大シンポジウムのシンポジストとして、午後の基調講演の講師として参加予定である。(参照:4/29日程表)午前のシンポジウムでは、後ろ向きに30年ダブル報酬改定を眺めるのではなく、今後医療介護がどんな方向を目指していくべきなのかについて、制度が目指すべき方向、学会が取り組むべき活動などなど、広い視野で議論するような企画されている。当学会の メインシンポジウムであるため、医療や介護のあり方など大きな方向性を語る場となる。シンポジストにはできるだけ前向きの、未来に向けたメッセージとなるようなプレゼンテーションが求められおり、各演者から20分のプレゼンテーションを行った後、ディスカッションに入る予定だ。
シンポジストの提言内容は以下の予定だ。
1.菊地 雅洋 先生:(内容)「介護の領域からの発表(リビングウィル、ACP)」
2.佐藤 龍司 先生:(内容)「老人保健施設、施設看取り、在宅復帰等」
3.鷺坂 英輝 先生:(内容)「医療・介護保険制度から見た在宅ケアについて話題提起」
4.迫井 正深 先生:(内容)「今後の医療・介護の将来像=“かくありたい、という「夢」を語る”」
午後からは、僕単独で「死を語ることは愛を語ること」をテーマに第8会場で基調講演を行う。看取り介護の場で生まれる「物語」の意味を考えていただきたい。
こんなふうに日本全国から保険・医療・福祉・介護の最前線に立つ錚々たるメンバーが一堂に集まる貴重な機会である。初日の日程終了後には、名刺交換会も兼ねた懇親会も行われ、新たなつながりも作れる機会ともなっている。
ゴールデンウイークのスタートとなる時期ではあるが、国際館パミールという導線の短い会場だけで、バラエティに富んだ様々な講義やデスカッションを聴くことができるまたとない機会である。是非時間をとって、グランドプリンスホテル新高輪までお越しいただきたい。
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看取りの話からはずれますが、私の職場の管轄自治体では「地域包括ケア会議」「多職種連携会議」という名称での会議や飲み会が盛んに行われ始めていますが、真の連携につながっているかは???です。
何度も会議しても、在宅と医療機関、施設と医療機関、在宅と施設の間の考え方の溝が埋まる印象を持てません。
「顔が見える関係」は、その先の連携のための入り口に過ぎない、そこから具体的に何をしていくか、ですね。
地道に頑張ろうと思います。