現代社会は不寛容な社会だ。そしてその不寛容さがピークに達しているのが今という時代ではではないだろうか。
誰もが自分以外の他人を許そうとしない。ネット上では、いつも過度な言葉狩りが行われており、一言の失言も許されないかのようだ。
失言を狩る人間の、その尻馬に乗ろうとする輩も数知れない。それらの多くは、自分の言葉ではなく、誰かの言葉に便乗して人を罵る輩である。せめて自分の言葉を持てと言いたい。
周囲に染まらぬ異分子は抹殺されるのが当たり前という論理がまかり通っているのが今の日本だ。
それはなぜだろう。いつの頃からか社会も個人も希望を失って、その閉塞感が人を保身に走らせているからではないのか。保身は卑屈さの元凶だ。その卑屈さが自分自身の中身を腐らせて、その鬱屈した感情が自分と毛色の違う人間や少数派に向けられるのだ。
周囲と毛色が違う人々を攻撃し排斥しようとする限り、自分は人から攻撃を受ける立場にならないし、卑屈さを感じなくてすむのである。そういう人間が常に攻撃できる誰かを探すことができるツールがインターネットだ。SNSは探し出したターゲットを最も攻撃しやすいツールである。そこでは一般大衆という名の化け物が、不正を糾弾されている人間には問答無用で罵声を浴びせ、自分より上座に居るものの転落を喜ぶ。無抵抗な人間には際限なく悪意を振りかけるのだ。
そんな歪んだ感情が、善意のある人々に牙を向ける例も枚挙にいとまがない。それはさもしい姿でしかないが、それによって傷つき立ち直れない弱者が存在するという事実から、僕たちは眼をそむけて良いものだろうか。
対人援助の世界では、すべての従業者が底辺の暮らしを送りながら強制労働させられているかのような印象操作がされることが多くなった。そういう世界だから虐待する人間がマジョリティーで当たり前であり、それを否定する人間が偽善者とののしられるかのような傾向もみられる。
そんな中では、周囲の誰しもが感動するエピソードは、作為のあるポエム化だと冷笑される。そんなことはないと主張するものなら、悪例や例外をマジョリティー化するさらなる印象操作でもって、本当に綺麗なものさえ「キラキラポエム」という表現でひとくくりにして悪意を持って罵倒される。
それはあたかも五体満足でないものは影に隠れて表に出るなと烙印づけしているかのようだ。
そういう悪意とは戦うべきだし、悪意に対しては悪意を投げつけて糾弾しても良いと思っている。そうした悪意に対する感情は歯に衣着せず、素直に表現すべきだ。介護・福祉に対するスティグマは徹底的に排除しなければならないからだ。
実践が伴わない空虚な人間が語る素敵な物語の中には、フィクションのキラキラポエムもあるだろう。しかしそんな表現とは無縁の経験を、僕たちはたくさん持ち合わせているのである。そういう経験ができなかったレベルの人間に、それはフィクションだろうとか、ポエムだろうと否定される筋合いは一切ない。俺のレベルまで上がってから文句を垂れろと言いたい。
相談援助職とは、ある意味そういう戦いの先頭に立つべき職種である。護るためには戦わねばならないときがあるのだ。
そんな仕事に自分は向かないなんて甘えないでほしい。
仕事の向き・不向きなんていうのは、結局のところその人間の我儘に過ぎないのではないだろうか。
相談員にしろ、事務員にしろ、介護職員であっても、看護職員であっても、医師ですら最初からプロであるわけがない。仕事を続けるうちにソーシャルワーカーは、相談援助職としての頭になっていくし、医師は医師の思考回路になってくのだ。
ある職業に就いて、その中の専門職として役割が与えられてしまえば、素質があるとか、ないとか泣き言は言っていられない。その職業で食っていかねばならないのだから、職業を選択した時点でプロになろうとするのは、社会人として最低限の義務ではないだろうか。
他人と違う道を歩けば、他者とは違う景色がみられる反面、それは時として棘の道かも知れない。未舗装の曲がりくねった道で、時にはぬかるみに足をとられて、どこにたどり着くかもわからない不安に胸を押しつぶされそうになることもあるだろう。しかしそれは自分だけが陥っている状態ではなく、誰しもが多かれ少なかれ経験していることではないのだろうか。そこから逃げようとしている者に、他に行くべき場所があるのだろうか。そんな場所があるわけがない。
その道のプロと呼ばれる人々は、ある一定の性格を持ち合わせた人ではないし、特別な才能がある人とも限らず、多くは諦めないで一つの道を歩み続けた人である。
そういう意味では、器用に何でもできる人がプロらしく見えるわけではなく、不器用に一つの道しか進めない人の方がプロらしく見えるってこともあるのかもしれない。不器用に確実に道を歩むことができる人にしかできないことがあるのかもしれない。
プロになるのに向き不向きは大した問題ではないということだ。だから今いる場所で、どっしり居座ってプロを目指す方が、ポジティブで確実な明日が迎えられると思う。
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介護業界に対するネガティブな印象についてのご意見に思うところがありましてコメントをしました。
私は相談援助業務ではなく特養介護職です。
ご利用者が生活するのに能力が不足している部分を支援して、ご利用者のQOLを高めることが介護現場での目的となるべきと仕事をしています。
現実にご利用者に提供する(出来る)支援という視点(目的)が感じられない福祉理念や介護理論を指導する上司がこの業界には多くいるように思います。
ご利用者への基本支援(排泄、入浴、食事)が労働の重要性として軽視されて、ヒエラルキーでの下位者がする業務と思っている人が、サービスの実務者から離れスーパーバイザーとなり上位者になっている施設が多いのではないでしょうか?
介護実務者を下に見ているケアマネ、相談員、上司の考えと同じ意見(否定しない)の現場主任が介護現場の地位向上を妨げて、それが社会の評価に繋がっているように感じます。
目的が個別のご利用者のQOLでなく、福祉理念、介護理論、組織運営(社福法人です)を目的化することによって、自分の仕事の責任を小さくなり、問題が起こると法人、相談員、ケアマネに問題原因は無く、現場職員個人に問題原因を押し付けるのが介護業界全体の考え方、ひいては社会全体の考え方になっていると感じています。
私個人は転職組で介護業界での転職回数、年齢から見ても(残念ながら)使い捨ての労働者扱いで頑張らなければなりませんが、masaさんに負けないぐらい社会に貢献しているつもりです。でも、生活は底辺ですよ☻