人は生きるためには自立する必要があるのかもしれない。でもそれは生きるための目的や目標ではないはずだ。

心身に何らかの障害を抱えている人であれば、日々の暮らしを営むためには、その障害を克服して自立することが目標の一つになるのだろう。

しかしながら、その場合でも最大目標が「自立」であるというのは間違っている。ある目標を達成するために、身体的にも精神的にも「自立」が求められることはあったとしても、それだけが目的化されるのはおかしいし、そんな暮らしの中で生きるのは苦行でしかない。

一般論で言えば、自立を目的に生きている人はいないのである。

しかしながら介護保険制度の目的の一つが「自立支援」であることから、対人援助とは誰かを自立させるためにあると勘違いする輩がなくならない。持続できる制度であることのみに偏った制度改正や報酬改定により、介護保険制度とは国民の尻を叩き続ける制度となってしまっているが、そのことに洗脳されてはならないのである。

できる行為を失わないように支援することは大事だが、それは自立が最大の目標だからではなく、できることを続けることによって実現できることがあり、それはその人の幸せにつながるかもしれないからである。自立が目的ではなく、自立の先にある「暮らしの質」が本当の目的なのである。

そうであれば自立できない人に、それを強要するのではなく、誰かが力を貸すことで手に入れることができる「暮らしの質」を求めたって良いのだと思う。

人間は独りぼっちでは生きていけないが、その意味は、人に頼ることができることで社会生活は成り立つという意味だ。

身体機能に障害がある人であっても、自分の意志がしっかりしていれば、他人からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動することができるのだ。その時には人に頼る、委ねるという選択権を持てばよいだけの話で、人に頼ることができるという素晴らしさを忘れてはならないのである。そのことを「自律」と呼ぶのであって、本来介護保険の目的も自立支援ではなく、自律支援であるべきだ。

精神の病などで意思決定ができない人に対しては、周囲の人々が、その人は何がしたいのかを慮って物事を決定するという代弁機能が求められるが、それは人間にしかできない尊い行為ではないのか。だから僕は、アドボケイトのもう一つの意味は「傍らにいることを許される者」になることだと主張している。

そんな風に人は、周りの誰かに頼って生きていくことができるという素晴らしい存在ではないのだろうか。頼ることのできる素晴らしさを忘れていないだろうか。委ねることができる人がいることの尊さを失っていないだろうか。頼ること・委ねることは、共立できるということなんだから・・・。

しかしながら自立支援が最大目標であるかのように勘違いした(あるいは洗脳された)人は、エビデンスのないキャッチフレーズだけの自立支援介護を最高のものだと勘違いしてしまっている。その最たる例は、「竹内理論」と称される、根拠のない強制水分摂取であり、その理論の実践で亡くなガラ暮らしている高齢者が全国にたくさんいるというのが、この国の実態だ。それは恥ずべき姿だ。

さらに恐るべきことに、暮らしの場であるはずの特養にさえ的外れの自立支援が強制される傾向が見える。「お世話型介護施設から、自立型介護施設への脱却」というキャッチフレーズを使って、自立できない高齢者の尻を叩き続ける施設が出現している。いったいいつまで人は頑張り続けねばならないのだろうか。80年も90年も頑張って生きてきた人が、さらに自立を強要される施設で、安心した暮らしを営むことはできるのだろうか。そこで暮らしたいと思うだろうか。

人の暮らしとはもっと多様性があるものだろう。一つの目的だけで表現できない多様性の中に生きるからこそ人生は豊かになるのではないのか。

自立型と謳う介護施設は、その多様性を喪失させてしまうだけのように思えてならない。せめてケアマネジメントをはじめとした、我々の対人援助の視点は、頑張らなくてもよい介護を模索しなければならないのではないだろうか。

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