東京に行くと、あらゆる場所への移動が、公共の交通機関を利用するだけで可能である。

重いスーツケースを抱えていても、タクシーを利用するまでもなく、電車で移動すれば済む。そもそも山手線などの駅間の距離の短さは何だろうと思う。札幌以外の北海道の移動を考えると、歩いて移動するのが当然の距離に駅と駅がある。なるほどこれだから自家用車を持つ必要もないわけだ。

一方北海道の郡部では、人口減少が進み、日用品を売る商店が生活圏域からなくなり、医療機関もない地域が増えている。

そうした地域の住民は、日常必需品を手にするために、あるいは持病の管理や治療のために、長い距離を移動しなければならない。そのための移動手段が必要となるが、鉄道もなく、路線バスも1日数本という状態では、それらの交通手段に依存してはままならない暮らしがそこにある。当然、自家用車は必要不可欠な生活の足である。

そうした地域もどんどん高齢化が進行するが、高齢化が進めば進むほど、生活圏域から移動して何かを行わねばならないという機会は増える。だからますます自家用車を手放すことはできなくなるし、運転することから引退するという考えも荒唐無稽なものとなる。

自家用車を手放し、運転行為から引退するということは、すなわち「暮らしが成り立たない」・「生きていけない」ということと同じ意味になってしまうのである。

しかし加齢は認知症の最大リスクであり、運転し続ける高齢者の判断能力が衰えることによって引き起こされる交通事故が増え続けている。その事故によって幼い命、前途ある少年・少女の命が失われるケースが年々増えている。

日常と変わらない通学途中に、突然歩道に乗り上げた認知症ドライバーの車によって、一瞬のうちに命を奪われる子供たちの魂は、どこに漂っているのだろう。安らかなる場所に行きつくことはできるのだろうか・・・。

警視庁のまとめによると、75歳以上になって運転免許更新時などに認知機能検査を受けた高齢者の中で、昨年1年間に交通死亡事故を起こしたのは385人で、うち49%となる189人が認知症の恐れがある「第1分類」か、認知機能低下の恐れがある「第2分類」と判定されていたことが明らかになった。

警察庁の担当者は「死亡事故を起こした高齢運転者は認知機能の低下がより進んでいた」と指摘し、運転技能に不安を感じた場合の免許の自主返納などを呼び掛けている。

いつ認知機能の低下が現れるかわからない。そして認知症の人は自分が認知症であるとは思えないのである。そうであるがゆえに、一定年齢に到達したら、運転行為から引退するという自戒が、すべてのドライバーに求められるのではないだろうか。

同時に生活が成り立たなくならないように、政治は、限界集落などの住民に対し移住策を促進し、人口減少社会の中でのコンパクトシティへの地域再編を最優先の政策課題としなければならない。

保健・医療・福祉・介護関係者は、地域行政に対して、高齢者の移動手段の確保のための対策を行うためのソーシャルアクションに努めなければならない。

2015年から「介護予防・日常生活支援総合事業」の中で、送迎サービスを行うことができるようになったが、2018年度からはこのサービスに、「買い物に困る高齢者や運転免許を返納した人」が対象に追加された。

このサービスは、乗車距離や時間に応じたガソリン代などの実費相当分として、1回数百円で利用できるものだから、日常生活に必要な移動手段の確保に困る高齢者には必需サービスである。このサービスを「介護予防・日常生活支援総合事業」として行っていない自治体は、認知症ドライバーの事故リスクに何も対応がされていない自治体ということになる。そういう市町村をなくしていかねばならない。

高齢者の日常移動手段を確保する政策は、日本の明日を担う子供たちの命を守る政策でもある。


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