特養から老健に移って勤務した時、同じ介護施設とは言えその違いに驚かされることが多かった。それはカルチャーショックといっても良いもので、両者の違いに唖然とした。
特養は「暮らしの場」であることを目指して、世間一般の日常と比べながら、普通の暮らし方を目指す場所であったが、老健は、毎日の暮らしの中に、「非日常」が普通に存在しており、それに疑問を持つ人もほとんどいない場所であった。老健だから・・・中間施設だから・・・という言葉での制限が数多く行われていた。
勿論老健は生活施設ではなく、中間施設であり滞在施設なのだから、暮らしの場を目指す特養と同じということにはならないが、僕から見ればそこは介護施設というより、医療機関という印象が強かった。
もしかしたらそれは老健という施設種別の問題ではなく、僕が勤めていた老健という個別の問題であったのかもしれないが、僕にとっては違和感を常に覚えていた場所であったことは事実である。
そういえばその老健施設の行事の中で、「遠足」というものがあったのにも驚いた。普通遠足とは、単に徒歩で日帰りで行く小旅行という意味ではなく、教育的意味合いを持った行事である。
すなわち遠足とは、「教師が児童・生徒を校外に引率して、さまざまな実地の経験や見聞をさせることをいい、通常は幼稚園から小・中学校段階にかけて行われる日帰りのものをさす。 」ものであり、それは身体の鍛練や集団規律の訓練を目的としたもので、高齢者支援の場で使うような言葉ではないというのが、僕の認識である。
そこで行われていることも、集団でテーマパークなどに出かける一大行事だった。デパートに集団で買い物に行くことも「遠足」と称されていた。
思い起こせば、特養も20年前は同じことをしていたように思うが、集団処遇の批判を受け、個別ニーズに対応したケアを模索する過程で、買い物や外出を「非日常的な行事」として行うのではなく、行きたい人が行きたいときに行きたい場所に行くという方法を模索し、施設全体で行うことはなく、天気の良い日に無計画でも、「地域に出かけることができる」ように変わっていった。
(参照:地域に出る、という意味)
そういう歴史や過程を知る身としては、集団行事的な外出は、ずいぶん遅れているケアスタイルだと思ったし、遠足なんて言葉を介護施設の利用者行事につかっていることは、大いに疑問だった。
僕は今後、新しい特養のオープンスタッフ教育にも関わることになるが、この辺りの違和感を普通に持つことができる感覚を伝えていきたいと思う。
介護施設は集団生活の場ではなく、強いられた共同生活の場に過ぎないのだ。そこで集団生活だからという論理で様々な自由や権利が制限されることは許されない。施設の管理者の考え方で、利用者の暮らしの質が左右されることがあってはならない。人の尊厳や自由は、最大限に護られる必要があるのだ。
介護施設のルールが、利用者の権利を無視して、オーナーや管理職の考え方で決まるというのも前時代的である。そのようなスティグマはなくしていかねばならないだろう。
介護の知識や援助技術とは、そうした人権意識を基盤とした上に成り立つもので、事業主体の都合で人権意識が揺らぐとしたら、そんなもの対人援助でもないし、人の暮らしを護るべき介護とは呼べない。
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ちなみに、新規オープン特養というと、どちらでしょうか?興味がありまして。