昨年10月、厚生労働省は受動喫煙の具体的な強化策のたたき台を明らかにした。
それによると高齢者が利用する施設や居住系サービスなどは、原則として建物の中はすべて禁煙にする構想が描かれており、違反を繰り返す場合には、建物の管理者や喫煙した本人に罰則を科す可能性も指摘している。
さらに塩崎厚労相は東京五輪に向け、10/14の会見で、「WHO(世界保健機関)によると日本の対策は世界最低レベル。日本は『スモークフリー社会』への歴史的な一歩を踏み出さなければいけない」と意欲をみせた。
これにより今後、特養等の介護施設の全面禁煙も議論の遡上に昇り、実現化が図られていく可能性がある。そのことは求められる方向性なのだろうか。
僕は非喫煙者であるから、受動喫煙対策強化には大いに賛成である(参照:私は、コレデ!!煙草をやめました。)。しかし特養という生活施設を全面禁煙にすることには疑問を抱かざるを得ない。
特養等の介護施設は、公費で運営され不特定多数の人が住む公共の場であるという性格を持つ。そのためにより高い公衆道徳が求められる場であるともいえる。そのことは十分理解できる。しかしそこには、個人の生活空間も存在しており、そこでは利用者の権利やプライバシーが最大限護られなければならないことは言うまでもない。
しかも特養は要介護高齢者の一時的な滞在場所ではなく、終生施設という性格を持つ。そうであるがゆえに、そこで全面的に禁止される行為があるとすれば、それは生涯取り上げられる行為ということになる。喫煙という行為が、そのような形で取り上げられて、一生涯許されない行為といえるのだろうか。
我が国では。喫煙者の権利が護られるのみで、非喫煙者の権利がおざなりにされる傾向が強いという批判があることも承知している。喫煙という行為が健康被害につながり、禁煙することで健康悪化を防ぐことができるとしたら、結果的にそのことは本人の利益につながるという考え方もあるだろう。だからといってそれを強制できるわけでもあるまい。
これから特養に入所してくる団塊の世代の人々は、愛煙家の多い世代である。それは単にニコチン中毒であると切り捨ててよいものではなく、その人たちが生きてきた時代背景が煙草を友とする習慣を作り上げてきたともいえ、高齢期まで続いてきた生活習慣を強制的に取り上げてよいとは思わない。
人に迷惑をかけないのであれば、喫煙というささやかな楽しみまで奪う必要はないのではないだろうか。
だとすれば、そこに一時的にしか滞在しない職員は仕事中に全面禁煙としても良いだろうが、利用者については喫煙者の権利も認め「分煙」として、喫煙場所を別に設けることでよいのではないか。受動喫煙の問題もそれで解決するだろう。
もともと分煙という考え方があるにもかかわらず、いきなりの全面禁煙という考え方になぜ至るのだろう。そこに住まう人々の嗜好は一顧だにされない理由は何だろうか。
僕がこの業界に就職した当時、特養には今より若くて元気な高齢者も多かったが、飲酒を禁止している特養が多かった。当時はまだ水洗化されていない施設もあったが、そういう施設では汲み取り式の便槽に酒瓶やビールの空き缶が大量に捨ててあったという話も聞いた。つまり飲酒を禁止された人が、便所で隠れて飲酒していたのである。そんな悲しい場面を作り出す制限が必要だろうか?
高齢期まで続いてきた趣味、嗜好、生活習慣は、お上の一言で取り上げてよいものではないのではないだろうか。健康に悪いからという理由があっても、個人の嗜好を国が奪う権利はないはずだ。
それにしても、この国の政治家にしても官僚にしても、国民に対し痛みと我慢は簡単に求めてくるが、自らが血を流すことは少ない。「先ず隗より始めよ」という精神は存在しないのだろうか。
介護施設を全面禁煙にして、利用者の喫煙機会を奪う前に、議員宿舎や厚労省の官舎の全面禁煙を実施し、永田町と霞が関の国の施設をすべて全面禁煙にしろよと言いたい。
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