僕にとって読書の意味は二つある。

一つには趣味としての読書。これは道外講演などの、移動時間の暇つぶしの場合もあるが、仕事とは関係のない趣味の本を読んで、まったりとくつろぐという読書である。この場合の読書は、まったく疲れない。むしろ、講演に向かう際の緊張感を取ってくれたり、頭に空きスペースを作ってくれたりして、リラックスにつながる読書である。

もう一つの読書は、まさに勉強のための読書である。

例えばそれは講演内容に根拠を求めるためのものであったりして、例えば社会福祉法改正についての講演を行うのであれば、基本的に講師は、受講者の誰よりも法律改正について知っておかねばならない。だから法律改正の内容だけではなく、改正に至る歴史的経緯から、改正内容につながる社会情勢、議論内容まですべてを知ろうとするのは当然である。

だからその関連の知識を得るためにはインターネットの検索である知識だけでは不十分で、専門書や関連書物を、たくさんの数読むことになる。

これは介護の実践論に関連する講演でも例外ではなく、看取り介護の講演を行う際に、死生観に関連した知識を得ようとする場合、哲学書まで読書の範囲が及ぶことさえある。それらは実際の講演の中では、ほとんど触れることのない内容であるが、僕の知識の基礎をかたどる重要な要素になっていることは間違いないところで、決して無駄な知識ではない。

介護の誇りとか、職員のモチベーションアップに関連したテーマで講演する場合も、介護実務の具体例を話すことは必然となるが、介護実務は、介護の知識だけでは語れない。介護の根拠にはボディメカニズムの知識が必要不可欠になるが、そのために医学知識は必要となり、必要な知識を求めた結果、医学専門書などを手にしていることもある。

終末期の胃瘻の適応を考える際に、老年医学雑誌Geriatricsにたどり着いたこともあるが、(参照:PEGの神話)普通こうした書物を介護関係者が読むことは少ないだろうし、医療関係者でもそうそう読んでいる人は多くないのではないかとも思うが、僕の心の中にあるWHYを解決しようとすれば、どうしても読書量も増えるし、求める書物の種類も多岐にわたることになる。

しかし人は一面、忘れる存在でもある。いったん獲得した知識も、繰り返し学んだり、語らない限り、その知識はあいまいなもの、おぼろげなものになってしまう。難しい内容の書物であればあるほど、っ忘れてしまう傾向は強いので、そういう本であればあるほど、繰り返し読むことが多い。

僕の場合、依頼される講演の時間は、60分〜300分と多岐にわたっている。そんな中でも120分という講演時間が多いが、120分の講演を行うためには、その何倍もの勉強をして準備をしており、同じテーマでも常に、新しい知識と、新しい社会情勢に即した内容に微調整しているのである。そのために、いろいろな分野にわたる専門書を読んでいるのである。

しかしこの際の読書は、前述した趣味の読書とは異なり、疲れる読書である。だから自らを鼓舞して、「やる気」を出さないと、なかなかそういう機会を持てない。しかし全国の皆さんから、講師としてお招きを受ける者の責任があるので、休みで時間が取れるときは、集中して専門書を読み漁る時間を意識して作っている。

昨日はまさにそんな日であり、朝起きて雑用を済ませてから、夜ご飯までずっと専門書を読み漁っていた。その時間はなんと11時間である。おかげでどっぷり疲れて、飯を食った後は倒れるように眠ってしまった。

しかしその読書が明日からすぐ役に立つというものではない。その11時間の読書が、僕の血となり肉となり、知識となるためには、もう少しその内容を咀嚼して、醸造する時間が必要かもしれない。

読書が知識になり、それが知恵に結びついたときに、自分の中に、新しい可能性が生まれていくということを忘れないでおこうと思う。だから年をとっても、日々勉強である。

学べばススムの精神は、学ばなければ退化するという恐れから維持できるものなのである。
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