昨日は、兵庫県小野市で行われた兵庫県老健協の研修会で、「老健施設のターミナルケア」をテーマに講演を行った。ところで特養などの福祉系サービスでは、ターミナルケアを、看取り介護と呼んでる。

「看取り介護」という言葉は、2006年の介護報酬改定で、特養の加算評価として、「看取り介護加算」が新設された際に、初めて造られた言葉である。

それまでは特養で行われていた終末期支援については、老健などの医療系サービスと同様に、「ターミナルケア」と表現していた。

しかし加算新設の折、国は全国老施協に対して、ターミナルケアは医療系サービスで使う言葉で、福祉系サービスである特養の加算としてはふさわしくないので、別な表現はないかと宿題を与えた。
(※それまでも医療系サービスではリハビリテーション、福祉系サービスでは機能訓練と表現を変えている。)

ターミナルケアを日本語に訳すとすれば、終末期介護が考えられるが、「終末」という言葉を使うと、それがあたかも「死」の支援であるかのような誤解を与えかねない。ターミナルケアは、命の炎が燃え尽きる時期が間近であることが分かっている人に対するケアであるとしても、それはあくまで生きることを支援する行為であり、死にゆくための支援行為ではないからである。

そのため老施協は、古くから日本語として存在していた、看取り、看取るからヒントを得て、「看取り介護」という新語を造ったというわけである。

しかし突き詰めて考えると、この言葉は少々おかしい。

看取り・看取るとは、死に行く人を看護するという意味だけではなく、「病人の世話をする。看病する。」という意味もあり、看取り介護という表現は、「看護介護」という表現ともいえるからである。

介護保険制度のサービスの中には、「訪問看護介護」という名称も存在するが、介護保険制度以外のどこを見渡しても、看護介護などという表現は見当たらない。少なくともその表現は自然な日本語の文章ではないように感じられる。

そのことは別にしても、「看取り介護」という言葉について、僕には一つの宿題が与えられていた。

僕は2013年まで、日本死の臨床学会・北海道支部の代表世話人を務めていたが(公私とも多忙で、総会等に出席できないために現在は辞退している)、2009年の総会の折、市民代表委員の方から次のような意見をいただいた。

「看取り介護」とか「看取り介護加算」という言葉は、利用者不在の意味に聞こえる。「看取る」のは介護者の視点であり、そこには看取られる側の「人」が存在しない言葉ではないでしょうか。もっと良い表現、呼称に変えていただきたい。

なるほどと思い、「別な表現方法がないか考えておきます。」とその時に答えたが、その後、なかなか看取り介護に替わる良い表現方法が見つけ出せず、そのうちに「看取り介護」という言葉は、介護関係者だけではなく、一般市民の間にも浸透していくようになった。

そのためその時の宿題も忘れてしまい、いつの間にかそれから7年の歳月が流れた。

その間にも僕は、全国各地で看取り介護について講演を行い続けていたわけであるが、先週北海道看護協会で、このことを話している最中に、突然2009年の総会のことを思い出し、同時にそれまでなかなか見つけられなかった、「看取り介護」に替わる言葉がひらめいた。

それは、「つなぎ介護」という言葉である。

看取り介護は、特別な介護ではなく、日常介護や日常生活とつながっている介護である。それだけではなく、看取り介護の場では、看取る人、看取られる人との間に様々なエピソードが生まれ、そのエピソードが人々の心に刻まれることによって、旅立つ人と、残された人の間で命のバトンリレーが行われる。

それはまさに旅立つ人の命が、残された人につなげられていくという意味である。

様々なつながりがそこには存在し、人の命が思い出として誰かの心につながって残されていくことが、人の歴史をつくっていくのだろうと考えた。

そしてつなぐ・つながれていくというのは一方的な行為ではなく、看取る人、看取られる人、双方の思いが、様々な場面でつながっていくのだから、看取られる人の存在なしではつながりはできないという意味でも、「つなぎ介護」という言葉はふさわしいのではないかと思った。

僕の一つの提案として考えていただきたい。
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