看取り介護の対象となる可能性のある人がいる場合、医師はその方が終末期であるといえるかどうかを判断することになる。
このとき回復が期待できない嚥下困難か、回復が期待できない嚥下不可能な状態の人をどう判断するかという問題がある。そしてそれは決して簡単な判断ではない。
そうした時期であっても、胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能であり、場合によってはその延命期間は年単位で長期に及ぶ場合があるからだ。
しかし延命期間が年単位であるとしても、そうした状態は、高齢者自らの生命を維持できなくなった状態にあるという意味で終末期とみてよいというのが、京都保健会盛林診療所所長・三宅貴夫氏が示している判断基準であり、僕が施設長を務めていた特養でも、その基準に沿って、医師が判断をしていた。
しかしこの場合も、利用者本人の意思が尊重されなければならず、医師を始めとした施設関係者が、胃婁による経管栄養をしてはならないと決めることはできない。
経管栄養とは医療技術の一つであるのだから、特段それを無用の長物と決め付けたり、悪者扱いするのはどうかしており、安楽な終末期に繋がる必要な胃婁増設という考え方も成り立つし、経管栄養によって延命したいという希望もあって当然であり、そうした考え方は尊重されねばならない。
延命のために経管栄養にするかしないかは、治療にあたる医師が、本人の意思・意向を無視して決めるべき問題でもないし、ましてや施設関係者などのサービス提供者が決める問題ではない
今現在の嚥下困難な状態を、医師が専門性に基づいて客観的に見て、回復不可能であると判断したとしても、患者自身が経管栄養による栄養管理を希望し、回復を願い治療を続けることはあって当然である。
そして利用者自身が、経管栄養を行うかどうかを選択した後は、その判断が良かったのか、悪かったのかさえ審判する必要はなく、対象者の判断を尊重すべきである。
だからこのことを家族が決めるのではなく、できるだけ本人が決めるべきであり、家族同士でお互いが元気なうちから、それぞれの意思を確認し合っておくことが、当たり前であるという社会にしてほしい。それが僕の主張である。つまり自分の死、愛する誰かの死について語ることを、タブー視させない社会が求められているのである。
僕が行う「看取り介護講演」では、このことを説明し、リビングウイルやエンディングノートを記録し始める時期に、「早過ぎる」という時期はないと主張させていただいている。
自分で決められなくなる前に、間に合わなくなる前に、自分が一番信頼し愛する誰かと、お互いの人生の最終ステージの過ごし方を確認し合っておくことが重要である。
介護施設における看取り介護の場合は、施設担当者は、利用者との信頼関係を得ることができた時点で、終末期の医療や、口から物を食べられなくなったらどうしたいのかなどを文書で確認しておくことが大事だ。そのことも講演で主張していることである。
福岡ケアマネゼミ・チーム篠木のセミナーでも、そのことを説明してきたが、終末期にどうしたいのかという文書確認(介護施設)について、以下のような質問がアンケートに書かれていた。
質問:(終末期の宣言書を書いた後に)本人の気持ちが揺らぐことについて、どう考えるのでしょうか。
この答えは、さほど難しくはない。気持ちが揺らぐのは当たり前だからである。
講演では説明が不足していたが、終末期の宣言書を書いてもらう際には、記入者に、「この宣言書は、いったん書いたら変えられないわけではなく、むしろ何度も変更してよいもので、気持ちが変わるたびに書き直しのお手伝いをしますので、その際は申し出てください。」と言っている。
そもそも介護施設と利用者の間で交わす、「宣言書」とは、法的にはほとんど意味のないものであり、確認書類というレベルでしかない。
例えばそれは、子が親の意思や希望を確認できないまま、親が回復不可能な嚥下不能状態になったとき、経管栄養で延命するか、そのまま自然死を選ぶかという重大な決断を強いて、この心に重たい十字架を背負わすことがないように、事前に意思確認するためのものに過ぎない。
以前にも書いたが、特養で親を看取る子が、グリーフケアが必要な精神状況に陥ることはほとんどない。それは孝養を尽くしたというよりも、逝く親の年齢を考えて、「大往生」と考える人が多いということだろう。
しかしそうした長寿の親を看取る場合にも、例外的に深い悲嘆感を持ったり、著しい精神的落ち込みが見られるケースとは、親の意思が確認できないまま、経管栄養等の延命治療を一切しないで、そのことで結果的に親の寿命を縮めたのではないかと思い悩むケースである。
こうしたケースが、できるだけ生じないように、親が元気なうちから、その意思を確認しようという意味の宣言書なのであるから、意思表明ができるうちに、意思が変わるたびごとに、宣言内容も変えるというのが健全な発想である。
気持ちが揺れて、その都度相談員に話を聴いてもらい、自分の死について考える機会を何度も持つことは、それだけでも意味があり、必要なことだと思うのである。
さて、アンケートには、もうひとつ別な質問が記されていた。長くなったので、その質問と回答については、明日のブログに書くとしよう。
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