認知症ドライバーによる交通事故は、被害者・加害者双方にとってこの上ない悲劇を生む。
このことを先々週の金曜日と先週月曜日のブログに続けて書いてきたし、過去にも繰り返し書いて来たところである。
しかしながら認知症の疑いがあっても、なかなか運転を止めさせられない理由のひとつに、自家用車による移動が、暮らしを成立させる重要な要素であって、運転をしなければその瞬間から暮らしに支障が生ずるという問題がある。
都市部であれば、運転をしなくとも公共の交通機関だけでどこに行くにしても不便はないし、自家用車がないことで日常の必需品を手に入れることができなくなるということはない。
しかしながら、さほど小さくない街でも、公共の交通機関だけでは日常の移動に不便が生ずる地域はあるし、ましてや北海道の郡部の町村であれば、自分の生活範囲に公共の交通機関もなく、徒歩で移動できる範囲に日用品を購入する商店もなく、自家用車を使うことは、日常生活を送る上で必要不可欠であるという場合も少なくない。
そのような地域においては、高齢になったという理由だけで、運転を控えるという考え方にはなりにくい。そのような背景があるなかで、記憶力や判断力の衰えの自覚がない認知症の人に対して、周囲の人が運転を止めさせようとしても、認知症の人自身は、なぜ自分が運転してはならないのか理解ができず、運転をしないでは暮らしが成り立たないとして、運転を止めようとする人に対して憤りを抱くのは、ある意味当然のことである。
そういう意味では、認知症の人が運転しなくても済む社会とは、地域住民が自家用車で移動せずとも、暮らしに支障がない地域社会であるともいえる。
自家用車を使った移動をせずとも、暮らしが成り立つからこそ、高齢ドライバーが、運転することを続けるべきであるかどうかを、考える機会を持つことができるのである。
地域包括ケアシステムとは、こうした一面への手当ても考えていくシステムであり、そのためには地域ケア会議を形骸化させず、日常の移動手段のない人が、その地域で何に困っていて、どのような具体的支援が求められているかという、「地域課題」を抽出して、その部分に手当てできるソーシャルアクションにつなげていくことが重要である。
限界集落という言葉が、日常的に使われる今日において、地域ケア介護において、地域課題として、「高齢者の移動手段」が挙がってこない方がどうかしているのである。そこでは、社会資源として、公共の移動手段を確保するための議論にとどまらず、高齢者自身の住み替えの必要性が議論の遡上に上ってくるのが自然である。
場合によって、このときに高齢者の住み替えを進めるだけではなく、地域の再編という形の大きな政治課題に繋がっていくかもしれない。
先祖代々のお墓がある故郷から離れがたい気持ちは理解できるし、住み慣れた地域から離れたくない気持ちも良く分かる。しかし少子高齢社会で、人口減少社会であることを考えると、コンパクトシティーをスローガンとした、地域社会の再編は避けて通れない重大な課題ではないのだろうか。
日本全体で、地域再編という大きな課題に取り組まなければならない時期に来ているように思える。
政治家は、天下国家の立場から、その必要性を国民に広く訴えて、地域再編を政治課題としてほしい。
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