人にとって、悲劇とは様々だが、最愛の人の記憶がなくなること、最愛の人に対して不幸を与えてしまうこと、その記憶さえ失ってしまうことは、最大の悲劇といえるかもしれない。

そのような悲劇が、今この国でじわりと増えてきている。それは超高齢社会が生む悲劇といえるものだ。この部分にスポットを当てて考えねばならない時期に来ている。

認知症ドライバーの運転の問題については、このブログでも何度か指摘してきた。

エピソード記憶や意味記憶が失われても、手続き記憶が最後まで残ってしまうことで認知症の症状があるのに運転してしまう人が増え続けている。

高速道路の逆走をしている人のうち、認知症の症状のある人が17%しかいないのだから、それは認知症の問題ではないという人がいるが、認知症という特定症状だけで、事故原因の17%もの割合を占めていること自体が大問題で、しかも事故を起こして死亡した高齢者の、その時点での認知症状の有無は調査されていないということが、さらに大きな問題なのである。実際には、認知症を原因とした自動車事故は数字に表れている以上に多いのである。

先日も秋田県日本海沿岸東北自動車道の大内ジャンクション付近の下り線で、出口から逆走進入してきた軽乗用車とトラックが正面衝突し、逆走車(軽自動車)に乗っていた3名の高齢者が亡くなっている。この事故に関して言えば認知症の問題であるかどうかは分からないが、何らかの判断ミスが事故原因となっていることは間違いなく、ドライバーに認知症の症状がなかったかどうかも検証してほしいものだ。

事実、認知症の人が運転する車の事故は増えている。その中には、自分の孫をひき殺してしまったという悲劇も含まれているが、この悲劇には第2弾があって、手続き記憶が残っているために運転ができてしまい、そのような事故を起こしてしまっても、その事故によって大切な孫の命が奪われたという、「エピソード記憶」はなくなってしまうために、事故を起こしたという記憶がなく、それ以後も運転を続けようとするだけではなく、その運転する理由が、事故で亡くなった「孫を迎えにいく」だったりするわけである。

そんな悲劇が繰り返されないように、手続き記憶だけで運転操作ができてしまう車を販売できないようにすべきだし(エンジンをかける際に、暗証番号を打ち込む車にすればよいだけの話である。)、少しでも認知症の症状が現れた人については、「運転操作ができるから大丈夫」と考えるのではなく、一刻も早く運転しないような環境に置く、という対応をしなければならない。

人口減少社会に入ったわが国では、人口密度が低くなり、それは高齢者の生活空間に日常の暮らしに必要な社会資源が、櫛の歯が欠けるように消滅していくことも意味している。そうであるがゆえに、これからの社会に、足代わりとなる自家用車の必要性は、増すことはあっても、減ることはないだろう。車が運転できないと暮らしが成り立たないという人が増える社会で、同時にこのような深刻な問題が起きている。

そうであれば、認知症ドライバー対策の一面は、車を運転しなくても高齢者の暮らしが成り立つ地域社会を創るということにもなる。そのための地域包括ケアシステムを構築しなければならないということだ。そこには、「住み替えを促進した新しい地域社会の構築」という新たな課題が見えてくる。

そしてそれは政治が誘導していかないとならない問題で、地域行政だけで解決できる問題ではないということも指摘しておきたい。

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