対人援助に携わる仕事は、たくさんの人々と出会い、そして別れていく仕事でもある。高齢者分野では、その別れが利用者の「死」を意味することも多い。

僕たちソーシャルワーカーは、出会いと別れという形で、誰かの人生の一部に深く介入していかざるを得ない。それは僕たちが望む望まざるに関わらず、僕たちの姿勢が、誰かの人生の幸福度に関わってくるという意味だ。

だから僕たちには、一人ひとりの利用者と、都度真剣に向かい合って、悔いのない支援を行うという姿勢と心構えが求められる。

それは決して建前で終わらせてはならず、対人援助に関わるものの価値前提といっても良いもので、それがなければ対人援助サービスの場から身を引く覚悟が必要だと思う。

そんなふうに考えて、自分が関わる一人ひとりの利用者が、少しでも幸福に暮らすことができるように真剣に関わらねばならない。そしてそのことを実現せねばならない。

つまり僕たちには常に結果責任が求められるのである。真摯に一生懸命頑張ればよいというものではなく、その結果、かかわった利用者の暮らしぶりが良くならなければならないのだ。それが誰かの人生に介入する仕事の責任であり、宿命でもある。

このように結果を出す、結果に責任を負うということは、結果をきちんと検証し分析するということだ。

そうであるがゆえに、僕たちの仕事の過程では、デスカンファレンスを始めとした結果の検証作業は不可欠と言える。振り返った自分の行為が、後から考えるといかに未熟な状態で行われたのかということを身にしみて考えさせられる結果になったとしても、そのことを避けて通るわけにはいかない。

振り返ってみると、自分の行ってきた支援行為に完璧なものはなかったということを思い知らされるかもしれない。その部分の反省と後悔の念は決してなくならないのかもしれない。

このように反省がなくならないということは、何も進歩・成長がないのではないかという批判を受けるかもしれないが、しかしそうした反省は、過去と現在とでは質の異なる反省や後悔であるともいえる。

過去のケースで不十分と考え、こうしなければならないと思ったことが、次のケースで実現できたとき、それで満足するのではなく、もっとできることを探している結果が、質の違う反省であったり、後悔であったりするのだ。

結果的にその反省や後悔とは、向上心の現れであり、次に繋がるものだとポジティブに考えても良いのではないだろうか。目指す頂きにのぼったからこそ、もっと高い頂きが見えるように、別な高い目標を定めて、そこにたどり着く方法を探し続けることがあっても良いのではないだろうか。

見えない上限を、わざわざ自分で作って自分の能力を限定する必要は無いだろう。まさに我々の仕事は、「天のない仕事」であり、「天のない介護サービス」なのである。

その中で、あらたなチャレンジに繋がる後悔は、後ろ向きの悔いではなく、前に進めるためのエンジン役となるもので、大海原に漕ぎ出す航海に繋がるものだろうと思う。
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