登別市の認定審査委員として、要介護認定審査に関わっており、僕は合議体の副委員長として毎回議事進行役を務めているが、平均して30ケースほどの認定を行う審査会自体は、30分もかからずに終えることが多い。

しかしそれは各認定審査員が、事前に一次判定調査資料等を読み込んでいるからであって、事前の準備としては審査会の何倍もの時間をかけている。

それだけ介護認定結果というものは、申請者にとって、暮らしを左右するほどの重みがあるものだと考えており、けっして機械的に処理するということにならないように自戒し、特記事項などを読み込んで、個別の諸事情をくみ取る努力は惜しまないようにしている。だから資料の読み込みにもかなりの時間をかけている。

しかし毎回のことであるが、資料を読み込んでいる際に、憤りに似た感情を覚えることが多い。

昨日の日曜日も、東京講演から帰ってきてすぐの時間から、今週木曜日に審査する29件の資料を読んでいたが、ほとんど何も書いておらず、認定の参考にならない医師の意見書が多すぎるのにイラついていた。

その事実は別な角度から考えると、医師意見書がなくても認定審査に支障のないケースがほとんどだということだ。

そうであれば、医師意見書が全ての審査ケースに必要ではないという結論を導き出さざるを得ない。こんなものに公費をかける必要はないと思う。このことはなぜ議論の遡上に昇らないのだろうか?

現在、介護給付費分科会では、認定期間を最長3年間にするルール変更が議論されているが、認定審査そのもののあり方をもっと議論しても良いのではないか。

要介護認定と、その区分は必要だとしても、現在のような7区分に分ける必要があるのかということも議論されるべきである。

要介護状態区分によって支給限度額が違っているが、そんな区分が果たして必要だろうか?区分支給限度額管理自体が必要だろうか?

区分支給限度額がなくなれば、不必要なサービスが増えるという人がいるが、自己負担の伴う介護サービスの量が、限度額管理がなくなるからといって青天井になることはないだろう。そのことはケアマネジメントがきちんと機能することで調整できる問題である。

このブログで何度か指摘しているが、現在の区分支給限度額は全体でも5割程度しか使われていないのである。つまり区分支給限度額は、サービスの調整機能を果たしておらず、逆にサービスが必要な人にとっては、それがあるが故に、自己負担10割となるために、サービスの一部を経済的理由によって抑制し、使えないというデメリットにしかなっていない。

そういう意味では、区分限度額管理の面から介護認定のあり方を考えるのはナンセンスである。

ただし要介護状態区分に応じたサービス単価が設定されていることには、それなりの意味があるだろう。要介護状態区分に関わらず、単価が均一化されてしまえば、結果的に手がかからない元気な高齢者を優先的に受け入れる事業者が多くなり、認知症や重度の身体障害がある方のサービス利用が難しくなるという可能性があるか。同じ報酬単価なら、手のかからない人を受け入れてサービス提供しようという考えが生まれることは容易に想定できるからだ。

そのため要介護認定自体が廃止されてよいことにはならないだろう。

それにしても現在のような7区分に分ける必要性はなく、軽介護・中介護・重介護といった3区分程度で十分ではないだろうか。

そして認定も、全てのケースに医師意見書を必要とするのではなく、基本的に認定調査のみで判定し、2号被保険者の特定疾病の診断に限定して、医師の意見を求めるというような方法に変えることを検討するべきではないのだろうか。

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