(その3から続く)
介護保険制度の功績を述べてきたが、罪過は何だろう。
その最大のものは、必要なサービスの量の確保策として、介護サービスを提供する人材確保策に、真剣に取り組んでこなかったことだろう。
少子高齢化の進行状況は、深刻な人手不足を招くことは容易に想定されたことであり、介護サービスの現場からは、人材確保がままならないという声が10年以上も前から挙がっていた。
そうした悲痛な現場の声が、全国各地の研修会等で、来賓や講師として列席している厚労省の人々の耳に届いているにもかかわらず、その声に対する回答は、「皆さんの声は、上に挙げておく」というものばかりで、具体策に結び付く提言なり、回答なりはまったくなされない状況が続いていた。
そして兵力の逐次投入のように、小出しにだらだらと出される人材確保策とは、人材センターの機能強化とか、離職者の登録制度だとか、介護職員の待遇だけを改善して介護事業経営の基盤を危うくする介護報酬改定だとか、人材確保策をあきらめたかのような、介護ロボットに頼る対策とロボット導入施設への加算だとか、荒唐無稽の愚策しか示されていない。(参照:人材不足の関連記事)
そんな対策で現場の仕事が回るわけがないというのは、介護サービス関係者の共通した思いであろうが、国がこのような愚策を取り続けていても、高齢者介護分野で言えば、人材不足はせいぜいあと25年くらいまでのことである。その後は高齢者数が減り続けて、今ある高齢者介護サービスが淘汰される時代・・・それも急激なスピードで減っていく時代になるのだから、官僚呆けの頭で考えた策が取り続けられても、政策によってではなく、人口動態によって、自然にこの問題は解決するということになる。
つまり介護崩壊は、一時的に悲惨な高齢社会を形成するが、それは歴史の中では忘れ去られる一頁にしか過ぎず、その間の高齢者だけ悲惨な状況を我慢させればよいということだ。官僚はアリバイ作りの政策をとり続けてさえいれば、歴史評価上その責任は、官僚の無能のせいではなく、「少子高齢社会という特殊な時代のひずみ」とされるという意味である。なんとも呑気で平和な国である・・・。
同時にこのことは、高齢者介護事業の賞味期限が見えているということをも意味している。
今現在、事業拡大を続けている介護事業者は、25年後にそのつけが回ってこないような事業戦略に基づいていなければならない。30年後に使うことを想定した箱物など意味が無いということだ。高齢者介護事業の崩壊は、バブル経済の崩壊を上回るスピードで押し寄せてくることは容易に想像できるからである。
横道に逸れた・・・本題に戻そう。介護保険制度の理念を曲解することによる、誤解の広がりも罪作りなことである。
制度の理念とは、自立支援と在宅重視である。
自立支援の方法は、本来個別の状況に沿った自律(自立ではなく):を保障するものでなければならないはずなのに、ソーシャルケースワークの視点からも「生活モデル」の視点を排除するかのような、「医学モデル」への回帰、身体機能に特化した加算ルールが増えて、医学的・治療的リハビリテーションエクササイズの方法論重視の考え方が広がった。それは人の能力を身体機能で評価するかのような偏見にも繋がる弊害も生んでいるのではないだろうか。(参照:必要なのは自律支援)
在宅重視は、財源抑制策の面から国が誘導したという面があるが、それは本来地域福祉の両輪が居宅サービスと施設サービスであり、後者は居宅生活を支える最終的なセーフティネット機能を持つという側面をゆがめてしまった。介護保険制度から、そうした視点を奪って、施設入所が必要悪であるかのような考え方を生み、施設サービスの軽視〜施設サービスの蔑視というゆがんだ偏見を生んだように思えてならない。
このような身体能力への偏見、施設サービスへの偏見は、相模原市事件の犯人の、ゆがんだ差別感に重なって見えるような気がしてならない。
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感動の完結編。
