介護関係者の中で、いまだに認知症を、「ニンチ」と略して表現する人がいる。いつまでそういう不適切な略語を使い続けて、認知症の人の家族の心を傷つければ気が済むのだろうか。

僕はこの問題を8年も前から取り上げているが、(参照:認知症をニンチと略すな!!)いまだにこのことの問題に気がつかない人が多いことに愕然とする。もともと介護関係者は、言葉に気を使わな過ぎるのではないか。

言霊という言葉があるように、「言葉には霊的な力が宿る」と信じられてきたのが、日本の伝統文化である。声に発した言葉が、何らかの影響を与えると信じられてきたのである。

そのことを信じようと信じまいと、コミュニケーションを主体に援助を行う介護の専門化が、その発する言葉、使う言葉に無関心でよいはずがない。言葉というものにもっと気を使ってほしいものだ。

それともうひとつ気になることは、認知症の人の行動を、BPSDと表現する人が多いことだ。それは必ずしも不適切な表現ではないが、その意味を知って使っているのかといいたくなることがある。(参照:BPSDという表現をやめよう)行動・心理症状という適切な表現方法があるんだから、そちらを使うようにしたらどうだろう。

それとも英語の頭文字をとって使った表現のほうが、専門家気取りが出来るってわけかな。そりゃあ違うだろうといいたい。

ところで認知症の人が、施設などで生活し始めた後に、自分の家に帰ろうとすると、「帰宅欲求が始まった」・「帰宅願望が出てきた」といわれることがある。

その言葉を聴くたびに、僕は心の中で、「なんじゃそれ!!」と叫んでいる。

施設利用者が家に帰りたくなるのは当たり前だ。どんなに良いサービスを提供しても、利用者には替える家があり、愛する家族がそこに住んでいる。そこに帰りたくない人はいない。

そうであっても人それぞれに、何らかの帰ることが出来ない事情や、施設に住み替えなければならなかった事情があるだけの話で、認知症ではない人は、その事情を理解して、帰りたい気持ちをぐっと抑えて、やがて環境適応していくだけの話である。

認知症の人は、その事情を理解したり覚えたり出来ないから、そのときの素直な気持ちを、言葉や行動で表現しているだけの話である。

それはきわめて自然な心模様だし、そのときにここがあなたの家だと説得する必要はないし、家や家族に勝(まさ)ろうとする必要さえない。

僕たちは家族に勝ってはいけないのだ、家族に勝負を挑む必要さえない。自分の家を愛し、家族を愛する人の心に寄り添いながら、それらを愛する心には勝てないけれど、それらの次に心の休まる場所にするために、僕たち自身が目の前の人々に愛情を持って接し、出来うる限りの手の差し伸べ方を考えればよいのだ。

誰にも勝たない愛を積み続けていくことを、受容と呼ぶのかもしれない。

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