人が生きていくということは、1日1日重たいものを背負っていくという意味なのかもしれない。

少なくとも、人は苦しみや哀しみと無縁で生きていくことはできない。そして望まないとしても何らかの罪を抱えて生きていかねばならない。それは法律を犯すという意味ではなく、知らず知らずのうちに誰かの心を傷つけてしまうことを含めてのことであり、自らとてその例外ではない。

高齢者介護施設には、何十年もの人生の重みを背負った人々が暮らしているのだから、その人たちの背負ったものも様々である。

それぞれの生きてきた過去を振り替えて、よい人生だとか、悔いある人生だとか評価したとしても、それはあくまで相対的なものに過ぎず、それこそ様々なことがそこまでの暮らしに引き起こったことだろう。僕たちソーシャルワーカーは、そうした暮らし全体に介入せざるを得ない職業だ。果たして50歳の半ばを過ぎたばかりのこの僕が、様々な重たいものを背負った人に人生に介入してよいものだろうか。そんな風に迷いつづけるのも、僕らの職業の宿命でもある。

そうしたときに常に考えていることは、ソーシャルワークのもっとも大事な役割とは、「つなぐ役割」だということだ。

人と社会を、人と社会資源を、人と人とを、そして心と心をつないでいくのがソーシャルケースワークの醍醐味である。

ソーシャルワーカーは審判者ではない。審判することなく、つなげていくことが大事だ。

専業主婦だったAさんには、自分が生んだ二人の娘が居られる。しかしその娘を始めとして、誰一人彼女に面会に来る人はいない。

Aさんには思い出したくない過去がある。専業主婦だった30代だった頃、彼女の心に悪魔が忍び込んだ。夫以外の若い男性に心を奪われたAさんは、家庭も家族もみんな捨てて男の元に走った。二人の娘はまだ小学生だった。失踪したAさんは、それから3年後に、生死不明であるとして離婚が成立したが、それは彼女にとって元家族との絶縁を意味していた。

家族が、Aさんの所在を知ったのは、それからさらに数年後のことだ。一緒に失踪した男との別れ話がもつれ、包丁で男の腹を刺したAさんが逮捕されたニュースが、小さな街に流れた。もう無縁だといっても、世間の冷たい視線は、Aさんの元家族にも向けられ、二人の子供は多感な時期に、つらく悲しい思いをした。

そういう子供たちにとって、Aさんは愛すべき母親ではなく、憎しみの対象でしかなかった。Aさんも、そのことを十分理解しているから、決して子供に会いたいとは言わなかった。

僕たちソーシャルワーカーは、そういう重たい過去も、複雑な家族関係もすべて知ってしまう立場にある。

そのときに僕たちは、過去の罪を背負った人の、その重たさは罪滅ぼしであるとして、何もせずにいてよいのだろうか。

この世に生きている血のつながった親子同士が、罪深い別れの日から何十年もの時が経っているのに、憎しみ、恨みの感情だけを持ち続けてこの世から消えていくことでよいのだろうか。僕はそう思わない。傍観者でい続けるなんてことは、僕にそんなことはできない。

それは罪深さを背負ったAさんのためだけではなく、血を分けた実の母親を恨み続けて拒み続ける子供のためでもあると思う。

僕たちソーシャルワーカーは、過去の人の罪を審判することなく、今ある状態で、人としてこれから生きるために、人としていつか死んでいくときのために、何が必要かを考え、できればこの世に縁を結んだ人々のわだかまりを解いて、冷え切った心さえもつなげていく役割が与えられているように思う。ソーシャルワーカーとはそういう存在だ。僕はそう信じている。

いつかこういうケースにも、どこかできっと光が差して、ぬくもり生まれることを信じて、おせっかいを真摯につんでいく覚悟である。

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