久しぶりの福岡講演は、5時間しゃべりっぱなしの「看取り介護セミナー」だったが、福岡だけではなく、佐賀・大分・長崎など、九州各地から会場に駆けつけてくれた人たちが、座学だけの5時間のセミナーを、全員熱心に受講してくださった。

僕がこのセミナーで伝えたいことは、看取り介護は特別な介護ではないのだから、特別な人員配置を必要としないし、一般の介護施設の機能を超えた何かをもつ必要もなく、日常の介護の品質を高めようとする、施設全体の意思統一さえできれば実施できるというものだ。

そしてそれは、人手が少ない介護現場の職員の、さらなる疲弊につながるものでもなく、むしろそこで生まれる様々なエピソードに、職員一人一人が当事者としてかかわることでしか得られない感動を呼び、自らの仕事の使命感と誇りを得ることができ、そのことによって仕事に対するモチベーションがアップし、それがさらなるサービスの品質向上の動機づけと、就業意欲の向上へとつながり、離職率を低下させるものとなる。

これは希望的観測でも幻想でもなく、僕がこれまで行ってきた実践の場で、事実として存在しているという根拠に基づいたもので、その事実がある限り、誰もそれを否定することはできない。

同時に看取り介護とは、たまたま命の終焉の時が予測されるというだけの話で、その予測ができない時期の介護と決定的に違うものではなく、ごく日常の介護の一部でしかない。その介護行為ができないという理由が、僕には理解できない。そこにいる誰かを、私たちができ得る最大限の行為で護ろうとするならば、命の尽きる時期の予測がされていたって、できること、すべきことは変わらないと思う。なぜ看取り介護を特別視せねばならないのだろうか。

勿論、終末期という時期の配慮などの知識は必要だろう。しかしそれは看取り介護の知識ではなく、介護そのものの知識であり、援助技術である。

僕の看取り介護セミナーでは、事実に基づいた実践論をお話ししているので、臨場感がほかの講師とは比較にならないと自負している。5時間という長時間にわたる座学のセミナーで、昼ご飯を食べた後にも、誰も眠る人がいないことは、その臨場感のせいだろうと思う。

嘘や虚構の話では感じられない感動がそこにはあるはずだ。人が人を思うときしか生まれない結果がそこには存在している。人が人を思うということはどういうことかを、虚構ではない事実が物語ってくれる。

それが僕の目指す講義スタイルだ。看取り介護に関する講義は、そのことが満載の講義となっているはずだ。

高齢者介護施設の場合、ほとんどのケースが、親を子が看取ることを支援するということになる。

それはこの世に存在している誰かが、自分を産んでくれた親に対して、この世で最後にできる恩返しのお世話をするということに他ならない。

そんな素敵な支援行為に関われることの幸せを感じてほしい。そんな場にいられることに感動してほしい。そのためには、看取り介護の場面で、「傍らにいることが許される存在」として、職員が日ごろから真摯に利用者に関わる姿勢が欠かせなくなる。そういう心構えと使命感が、職員を専門職としてだけではなく、人として成長させるのである。

看取り介護を行わないという施設の管理者は、職員からそうした貴重な場を奪っていることにほかならない。

前日に福岡入りしたこともあって、今回は篠木ゼミ(参照:リーガルソーシャルアクションの第一歩)の皆さんとのオフ会も楽しませてもらった。福岡はおいしものが多すぎて、せっかく成功したダイエットが、1週間分くらい吹っ飛んでしまった。

なおその模様は、masaの血と骨と肉、で紹介しているので、ご笑覧願いたい。

それにしても福岡はやっぱりいい。

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