新天地の仕事で一番苦戦しているのは、利用者の名前が覚えられないということだ。

毎日コミュニケーションを交わして、覚えようと努力しているのであるが、100人の利用者の顔と名前がなかなか一致しない。自分が入職以前からいる人の名前が覚えられないのである。

しかし4月以降に、自分が業務の中で関わって入所した人については、その顔と名前を覚えることにl苦労することはない。

この違いは何かというと、記憶の回路の違いだろうと思う。仕事で関わった人の名前は、「手続き記憶」として脳内に残るが、そうでない人々の名前を覚えるということは、「意味記憶」として脳内に残すものなので、なかなか覚えられないということなのではないだろうか。

この記憶の回路については、認知症の人の残される記憶という部分でも、過去に記事を書いているところである。(参照:記憶を失っても、感情が残される理由

どちらにしても、ソーシャルワーカーが利用者の顔を分からないでは話にならないので、意味記憶もしっかり保持したい。

ソーシャルワーカーのスキルのひとつに、記憶力というものが挙げられても良いのかもしれない。それは利用者の顔や名前を覚えるというだけではなく、利用者自身のエピソード、利用者の家族の顔や情報などの記憶が大事である。

様々な場面で調整役を担うソーシャルワーカーは、特に人間関係調整の場面では、たくさんのエピソード記憶を酷使することによって、よりよい援助ができるというものだ。

人の悲しみを覚え、人の苦しみを覚え、人の喜びを覚えることによって、初めて人の感情に敏感になることができるからだ。この敏感さが、「個別化」の第一歩でもある。

そういう意味では、記憶・記銘力が低下しつつある年齢の僕は、ソーシャルワーカーとしてのスキルの低下をどのように防いでいくかが問われてくるのかもしれない。

だからといって、自分がソーシャルワーカーとしての旬を過ぎたとは思いたくはない。記憶力の低下を補って余りある経験と、人間力が備わってくる年になったと考えたい。そういう人になりたい。

その人間力の中には、利用者を人として愛しむ、愛情の発信力というものも含まれていると思っている。

愛情だけでソーシャルワークは展開できないが、愛情のないソーシャルワークは空しい。それはソーシャルワークの名をかたった絵空事に過ぎなくなると思う。

医療機関のソーシャルワーカーと称する人の一部には、愛を感じない人がいる。そこで行われている行為は、退院支援と称した、強制追い出しである。僕たち」介護施設の」ソーシャルワーカーも、その渦に巻き込まれて、困ることがある。

退院させるということは、大切な支援行為になり得るし、そこではソーシャルワーク援助技術が求められるだろう。しかしそれが退院させられる人の状況を無視して、医療機関の一方的な都合で、別の行き場所に追いやるのなら話は別である。

ソーシャルワークには常に、基礎知識と高い倫理観と、人間愛が必要なのだ。青臭いといわれようが、人の命や暮らしに関わる専門職が、愛情というエッセンスを失ったときには、この世は暗闇に覆われるだろう。それほどソーシャルワークは、人にとって大事なものだと、自分に言い聞かせながら日々研鑽している。

僕たちが対称にしているのは、一人一人の心ある人間なのだ。喜怒哀楽の感情を持つ人に、愛情を持って寄り添うのがソーシャルワークである。

そのことは時代が変わっても、変化するものではなく、ソーシャルワーカーが、普遍的に抱くべき思いである。

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