認知症で徘徊中に列車にはねられて死亡した男性(当時91)の遺族に対し、JR東海が損害賠償を求めた訴訟の最高裁判決が明日示される予定である。
「認知症徘徊の列車事故訴訟に新たな動き」で紹介した通り、この裁判については、1審・2審とも年老いた妻の監督責任を認め、損害賠償を命じたものの、最高裁判決を前に、原告・被告双方から意見を聞く弁論が2/2に行われたことから、高裁判決を破棄して、被告の監督責任がないとする最高裁判決が言い渡される可能性が高い。
2審でも問題とされた、玄関のセンサーについては、認知症の夫の徘徊を防ぐ目的ではなく、その夫が認知症になる前に自宅で不動産業を営んでいたことから、来客がわかるように設置したもので、そもそも介護とは関係ないという長男の証言がある。そうであればそのセンサーを切っていたと言う事実に対する監督責任は、介護とは関係のない設備の使用を求めているもので、さらにそのセンサーは、飼い犬にも反応してしまうため、徘徊防止にはならず、むしろセンサー反応で、死亡した認知症の男性の混乱が助長されるために、センサーを切っていたという主張は納得できるものである。
そういう意味でも1審・2審の判決は、説得力に欠ける判決と言わざるを得ない。さらに認知症の人の事故で「夫婦だから」という理由で年老いた妻に、それと同様の重い義務を負わせるのには疑問であるという意見も多い。
そんな中での判決である。
しかしこの裁判結果に注目すべき点は、被告の監督責任がなしとして賠償義務がないとされるのかどうかということではないと思う。
このことはリンク先の記事でも主張しているが、むしろ監督責任がなしとされ、賠償を命じた1・2審判決が覆った際に(覆る可能性が高いと思う)、JR東海が被った損害は誰がどのように補償するのかという問題である。
勘違いしてはならないのは、原告のJR東海は、理不尽な要求をしているわけではないということだ。現に列車事故により被った損害賠償を、事故原因となった徘徊中に列車にはねられて死亡した男性(当時91)の遺族に求めているという訴訟であり、損害自体は生じているもので、賠償を誰かに・どこかに求めること自体は、決して無法でもないし、社会常識に照らして逸脱した行為でもない。
この時に、家族や夫婦という理由だけで、認知症の人の行動をすべてコントロールできるわけではなく、当事案が監督責任も及ばないものであるとされたときに、JR東海の損害を誰が保障するかという問題が、一番注目すべき問題であると思う。それは決してJR東海が泣き寝入りして終わって良いという問題ではないのだろうと思う。
今回損害を受けたJR東海という会社は、この損害賠償が認められなくとも、そのことで会社経営が危うくなるわけではないだろうが、今後認知症の人が増え続ける社会で、こうした事故は対策をどのように採ったとしても完全に防ぐことは出来ず、その数が増えることが予測される。そのたびに損害を受けた会社が、「誰の責任でもない」ということで、損害を賠償されないとしたら、それこそ経営危機に陥る。
もっと身近な問題として考えるなら、こうした損害が会社ではない個人に及ぶ可能性も高いということだ。
今後の社会では、認知症の人の事故は、鉄道に限った死亡事故ではなく、一般道路で普通に運転しているドライバーを巻き込んだ事故として起きる可能性が高い。その時に、事故当事者となり自家用車等が廃車になったとした場合、誰もその損害を賠償してくれないとしたら、認知症の人が道路に飛び出して事故を起こした当事者自身の運が悪かったで、すべての問題が処理されることになりかねない。それでよいのだろうか。
その唯一の解決策は、社会的な損害補償ということにならざるを得ないのではないだろうか。
明日の判決が、そのことを含めて何かを示唆する内容になっているかどうかが、一番注目されるところだと思う。
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masa様の着眼点はいつもすばらしい。話がそれますが、緑風園はこんな方を失ってしまうことを後悔していないのでしょうか。