看取り介護を行う際に、医師の役割りが重要であることは言うまでもない。

看取り介護を実施するに際して、対象者が、「回復不可能な終末期」であるという判断は、医師しかできない。

そして終末期であると判断したならば、どこで人生の最後を過ごすかを決めるに際し、本人(もしくはその家族)に、終末期であるという病状説明を行うことも医師の責務である。これは誰かが代わって行うことができる問題ではない。そしてその際には、余命診断も行う必要があるだろう。

そうした終末期の判断や、余命診断がきちんとできておれば、看取り介護になってから1年以上経過しているが、計画は見直す必要はないかなどという、おかしな質問がされるわけがない。本来終末期とは、余命半年以内の状態をいうものであり、予想外の回復がないとはいわないが、基本的には1年以上にもわたる看取り介護というものが存在することの方がおかしい。医師はそのことを、どのように判断しているのか、逆に聴いてみたい。

例えば、末期がんという判断は、「治療効果が期待できなく余命がおおよそ6ヵ月にある時期」という定義付けが可能で、それは「一般的に認められている医学的知見」といってよいだろう。

それ以外の病気の場合は、まず治療を試みて治療効果があるかどうかを判断したうえで、治療効果がなくなり余命が半年以内と予測される場合に、終末期であるという判断がされるものと思われる。

この際に回復不可能な嚥下困難の場合でも、胃瘻による経管栄養を行えば延命は可能であるが、高齢者自らが自分の生命を維持できなくなった状態にあるという意味で終末期とみてよいと言う考えが、当施設の判断基準である。そのことは医師が替わっても、当施設の看取り介護の考え方として理解していただき、判断基準としていただいている。このことについいては、医師しか判断できないとはいっても、もともと看取り介護指針に則った、看取り介護の実践であることを忘れてもらっては困るので、医師により判断が大きく違っては、利用者や家族の安心感は生まれないからである。

そして一旦看取り介護に移行した場合、医師の役割りはさらに重要となる。そこでは医師は、対象者やその家族に安心感を与える役割りが重要となる。

看取り介護に移行し、積極的な延命治療が必要なくなったからと言って、医師の姿が見えにくくなれば、対象者や家族は、不安感にさいなまれるであろう。医療対応が必要なくとも、「体調はいかがですか」、「おかわりはないですか」などと声をかけるだけで、対象者や家族は、安心できるのである。

逆に言えば、ムンテラの結果、看取り介護を行うこととした瞬間から医師の姿が遠ざかってしまっては、対象者も家族も不安でならないだろう。ここは最大限の配慮が求められる点である。

そして看取り介護の場面で、医師に求められる最大の役割りとは、医学的知見に基づいた「何もしなくてよい」という判断である。これは医療知識と医療技術があって、何でもできる医師だからこそ判断できることで、もともと何もできない人が、知識も技術も存在しない場所で、「何にもしなくてよい」などという判断をしてはならないし、そんなことがあれば恐ろしいことになる。何もしない医者がそこで判断してくれるからこそ、何もしないことへの不安は解消し、安心の暮らしをおこくることができるのである。

こうした重要な役割を持つ存在であるからと言って、医師だけが絶対権力者になることは許されない。看取り介護のチームは、誰かの人生の最終ステージを安らかに、安心感をもって過ごすことができるように支援するチームなのだから、看取り介護対象者を中心に置いて、すべての物事が考えられなければならず、看取り介護の理念は、チーム全員が共有し、一人のスタンドプレーに陥らないようにする必要があるからだ。

介護施設の場合、そのことも含めてチームを統括するのが施設長だから、統括者としての責任を施設長は担う必要もあるという意味になる。

このように、看取り介護には医療的支援が欠かせないが、それはあくまで緩和医療であり、対象者が旅立つ瞬間に医師や看護師が居なければできないケアではない。

ここの部分のは「介護」であることを忘れてはならない。

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