昨日朝、僕の携帯メールに着信があった。それは旧知の間柄の人からである。
「寄付申込書を先ほど返信しました。なんか、複雑な気持ちですね。今後のことは、相談させてください。」
僕としては何のことかさっぱり分からず、心当たりのないメールだったので、「寄付申込書ってなんのことですか?」と返した。
すると数分後に、「昨日かな、○○○から、昨年の○○の御礼状が届き、同封されていて返信依頼がありました。」という返信が来た。
ここでやっと意味が分かった。
その方は道外に居住する方であるが、数年前から全くの善意で、その方の地域の特産品を、緑風園の利用者の皆様にと寄付して下さっている方である。昨年の秋にも、恒例となった寄付物品の寄贈があり、その際に御礼状は出しているはずである。
そうであるにも関わらず、今回あらためて当施設事務担当から、遡ってその際の寄付申込書を書いてもらうことを目的にして礼状を送ったらしい。このことは僕に相談や連絡が一切されずに行われた行為である。
事務手続き上は、決済行為がいらず、施設長の承認を得ないで行うことができる手続きであると言っても、もともと僕の知り合いという関係性で、寄付を続けてくれた方であることを考えても、僕に一言の挨拶も、許可もなしに、そのような文書を送るというのは、人としての礼儀に欠けるというそしりを受けても仕方のないことだろう。
ただこうした対応に及んだ理由は、なんとなくわかる。
実は今月15日に、道の実地指導が入る予定になっており、その対象は社会福祉法人運営である。(介護老人福祉施設運営等は今回は対象外である。)すると以前の実地指導で、法人が寄付を受ける際に、領収書を発行するだけではなく、事前に寄付申込書を書いてもらうように指導されていたという経緯がある。そのために、申込書をいただいていないケースを確認し、あらためてその書式を寄贈者に送って、記入してもらうことにしたのだろうと想像した。
しかし寄贈者の立場に立てば、それは極めて失礼なことである。数ケ月前に寄贈した物品について、しかも毎年恒例のように寄贈してくれている方にとって、まるで寄贈品を申込みなく送りつけたのが悪いことであるかのように、あらためて「寄付申込書」を書くよう求める文書が来たら、憤りの気持ちを持つのは当然である。
書式に記入して返信するという手間はともかくとして、善意で送ったものについて、このような形式にこだわる対応は、その善意を踏みにじる対応であると感じて当然である。
そのような気持ちに全く配慮せず、このような書式を送りつけた事務対応は、まさに融通に欠ける杓子定規な対応であると言わざるを得ない。そもそも事後にこのような書式を整えても、それは決められたルールに基づいた適切な処理にはならず、むしろ記録を改ざんするという意味の違法性さえ問われる。法令遵守とは程遠い行為なのである。
そこにガバナンスやコンプライアンスは存在しないと言ってよい。
そもそも寄付申込書の記入を求める理由は、数年前に社会福祉法人で、施設利用者の預金を勝手に流用し、領収書を発行した事実をもって、寄付を受けたとした事件があったことによるもので、寄贈者の意志に基づく適切な寄付行為があったことの証明を求めているものである。
そのことを鑑みると、金銭ではない物品の寄贈行為について、そうした事前申し込み行為が必要かどうかは大いに疑問が生ずるところであり、指導担当者もそこまで強く求めないのではないかと思われる。よしんば実地指導でそのことを指導されても、事前の申し出のない寄付物品が送られてくることはよくあることで、体裁を整えるために事後に申込書を書いてもらうことに意味はないし、むしろそれは失礼なことであると主張し、それでも指導されるとすれば、「次から気を付けます」として、ほおっておけば良いだけの話である。
その程度のことで、法人運営を不可とするような指導には絶対にならないと断言できる。
そのためメールを送って下さった方に再度、「知りませんでした。そんな杓子定規なことを勝手にやってるんですね。申し訳ありません。もうこの法人への寄付はやめましょう。」、「誠に申し訳のないことだと気づいていないのだから、どうしようもありません。御免なさい。心よりお詫び申し上げます」と謝罪した。
それに対して、「そうですね、菊地さんの次の職場に贈りますよ。」と優しい返信メールが届いた。
どちらにしても、善意の寄贈で、その行為からかなりの日時が過ぎてから、寄付申込書の提出を求められて不快を感じた皆さんには、この場を借りて深くお詫び申し上げたい。決して皆さんの善意を否定したり、疎ましく思ってのことではないのである。
それにしても寄贈者にデリカシーのないこのような行為に至る原因はなんだろう。それはむく方向、気を使うべき対象・相手を間違っているからではないだろうか。これは昨年あたりから、僕がひしひしと感じてきた変化であり、僕が退職を決意した理由ともつながっていることである。
今後、この法人は新規事業も行う予定になっているが、こんな状態で有能な人材を集めることができるのか大いに疑問だし、そもそも今いる職員が、幻滅して辞めていかないかが心配である。
飛ぶ鳥跡を濁さずの精神は忘れるつもりはないが、飛ぶ鳥が汚した部分ではないところまでは、責任を持つことはできない。
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言わずもがなですが、そういった善意に対することに、気付かずに行ってしまう仕事としての
行為は、こういった仕事での感覚麻痺によるものなのか、人としての配慮に欠けるものなのか、
当然、後者だと思いますが、我々の仕事は常にその二面性を兼ね備えている気がします。
人としての行為と、福祉としてのバランスが保てなければ、我々が行う本質の仕事は
極まっていなかないと思います。未熟ながら、その辺りは大事に働いていますので
これを見ていてもたってもいられませんでした。masa様、また講演でお会いできる日を
楽しみに、今後も精進していきます。春からも、これまで以上に応援しています。