昨日、読売新聞朝刊のトップニュースで、厚労省が要介護1と要介護2の生活援助(訪問介護)を保険給付から外す方針を固め、2月以降の社会保障審議会で議論を進めると報道された。
このことについて、関係者を中心に大きなニュースとして取り上げられ、そこには様々な反響がある。
しかしこの報道に触れて騒ぎ出す人々の様子を見ながら、「今更何を言っているのか」と思ってしまう自分がいる。
2014年08月13日に書いたブログ記事、「特養の入所ルール変更は、特養関係者だけの問題ではない」を読んでいただくとわかるが、「特養の利用制限の前例は別サービスの改正に向けられるかもしれない。例えば訪問介護の生活援助は、原則要介護3以上という方向性で議論がされていくことを否定できないし、給付制限の前例がある以上、そのハードルは低くなったと言わざるを得ないのである。」と1年半以上前からこのことを予測しているのである。
さらに僕が全国各地で行う講演の中でも、「介護保険制度」をテーマにした講演ではずっと、「次の改正では、軽介護者の家事援助はずしが行われる可能性が非常に高い」と言い続けてきた。厚労省の方針は、それより早く2017年度にも給付外しを実現しようとするものである点だけが、予測を外れたと言ってよいが、方向性自体はあらかじめ予測の範囲である。
そもそもこのことが具体化したのは、昨日の報道ではなく、内閣府の「経済財政運営と改革の基本方針2015」によってである。この中に、「軽介護者への生活援助の在り方」が記されている。
2015年4/27財政制度等審議会・財政制度分科会においては、「要介護2以下が対象のサービスを、効率化に向けて市町村の裁量を広げる「地域支援事業」に移行するとともに、そのうち訪問介護の生活援助や福祉用具の貸与、住宅改修の給付について、自己負担を原則とする仕組みに切り替えることを提言。要支援者への訪問介護とデイサービスも、原則として利用者の自己負担にすべきだ」と意見もされているのである。
このことは2015年6月30日に閣議決定された、「社会保障費の伸びを現状の毎年1兆円から五千億円に抑える」という骨太の方針といも合致しており、今後の議論のありようによって微調整はあるだろうが、どちらにしてもいずれ給付制限が実現されることは間違いないだろう。この流れを止める力は、今現在どこにも存在しないと言ってよいからだ。
全国老施協でさえも、「介護保険給付は、施設サービスをはじめ直接介護を要する事業や標準水準の生活維持を目的とした事業に限定し、それ以外の付加的サービスは原則自己負担、福祉用具は、車いす・特殊寝台・床ずれ防止用品・自動排泄処理装置等に限定せよ」という、給付制限を推奨する意見書を国に提出しているという現状がある。
しかも財政審の意見などを読んでわかるように、給付制限の対象は必ずしも軽介護者の「生活援助(家事援助)」に限らないということである。通所介護や福祉用具貸与や住宅改修も、ここに含まれてくる可能性が十分あるのだ。
当然地域支援事業化された予防訪問介護や予防通所介護も、次の改革として給付から除外して、低所得者への補助事業を創って、原則自己負担サービスとするという改革へと進んでいくだろう。
下記の画像は、昨年から僕の講演で使っているスライドの1枚である。またこのスライドは、28年2月8日(月)14:00〜16:00、大阪市住吉区の市民交流センターすみよし北で行われる、「住吉区サービス事業者連絡会3部会(在宅・居宅・施設部会)合同研修」の中で、「介護保険制度と地域包括ケアシステムの今後を考える〜ほかでは聴けない介護保険の真実〜」というテーマで講演を行う際にも使うものである。この研修会は、どなたでも無料で参加できるので、興味のある方は張り付いたリンク先から内容を確認して、記載してある方法で参加申し込みをしていただきたい。

この流れは止まらないと書いたが、だからといって2017年からの軽度介護者に対する生活援助の給付外化が現時点で決定したわけではない。問題が問題だけに、すんなりと審議会が受け入れる保障はないと思え、その行方に注目してほしいし、出来ることは現場で声を挙げ続けることだと思う。そして社会保障審議会でも、しさしたる反対論がないまま、アリバイ作りの議論展開になったとしたら、その時は委員や委員会そのものを遠慮なく批判しなければならないと思う。
こうした方針に、国民の福祉を守る立場の厚労省が、反対もせずにむしろ積極的に給付制限の方針に傾く理由は、とりもなおさず介護保険制度を持続させたいからだ。介護保険制度が運営できなくなって、他の制度に変わってしまえば、厚労省は介護保険特別会計という厚労省の権益を失う可能性があり、新しい制度が一般会計での運用になれば、財務省の主導の制度となり、厚労省の力が一段弱まるからだ。
しかし財源がないと言っても、もともと強制加入の掛け捨て保険である「介護保険」を創設した際の国と国民の約束事は、一定年齢になって保険料の支払い義務を負ったとしても、それは介護を個人の責任で行うのではなく、介護を社会化するもので、要介護状態になったならば、社会保険である介護保険の給付サービスを受けることができるというものであったはずだ。
そうであるにもかかわらず、強制加入の保険料を支払う国民の立場を無視して、要介護になっただけでは、保険事故に対応しない社会保険方式というものが存続しうるのだろうか?すくなくともこの給付除外は、国民の保険料支払い意欲を著しく削ぐものとなるだろう。それでも給与天引き、年金天引きが主たる保険料納付の方法だから、影響は少ないとでもいうのだろうか。
どちらにしても要介護1と要介護2の生活援助をきゅふから外すということは、必然的に予防訪問介護も給付から外れるという意味に通じていく。さらにこのことは終わりではなく始まりである。この給付除外が実現すれば、そのことを足掛かりに、さらに他サービスの給付除外へと広がっていくことは間違いがなく、国民の福祉は一段と低下せざるを得ないのである。
そもそも税と社会保障の一体改革の前提には、政治改革で政治家も痛みを共有するという約束事があったにもかかわらず、選挙制度はいつまでも違憲状態を放置して、政治家は既得権益を失わないことだけに躍起になり、痛みを伴う改革をしないまま、国民だけに痛みを負わせている。
こんなことがいつまで許されるのだろうか。
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