今年のクリスマスイブは、雪のない夜となった。

僕が物心ついて以来、イブの夜に雪がないという記憶はなく、初めての経験のように思える。

雪は北国の住民にとっては、決して幻想的なものでも、歓迎されるものでもなく、厳しい冬の象徴に過ぎない。時にそれは生活障がいそのものである。だから雪の少ない冬は歓迎されはしても、忌まれる状態ではないはずだ。しかしイブの夜に白い雪が見えないのはなんとなく寂しく感じたりする。それはきっと贅沢な感情なのだろう。人間とは勝手な生き物である。

僕の家庭の話をすれば、二人の子供もすでに社会人として巣立っており、クリスマスを一家で祝う時期も過ぎているので、特別な日ではなくなりつつある。それでも子供が家に居るとなれば、夜の食事はクリスマスらしいメニューを並べることになるが、不在であれば、特段の献立が並ぶこともないだろう。

そんなクリスマスではあるが、この日を迎えると毎年のように思い出す事がある。

それは自宅で過ごすことができない子供たちのことであり、クリスマスを自宅で迎えることができない子供たちのことである。

学生時代のある時期、僕は児童福祉の現場で、実習生あるいはボランティアの学生として関わっていたことがある。

12月24日の夜は、児童相談所の一時保護施設内や、児童養護施設のホールで、そこで過ごす子供たちにプレゼントを配り、ささやかなパーティーを開いたりしていた。

様々な事情で家族と暮らすことができなくなった子供たちが、そこには多数存在していた。親のない子、親があっても一緒に暮らすことができない子。幼児から中学生まで、様々な年齢の子供達がそこには居た。

その時僕は、僕が暮らす同じ国で、世間の喧騒とは別なところで、世間のクリスマスとは無縁の暮らしを送っている子供たちが存在することを始めて知った。

彼らが本当に欲しかったものは、物としてのプレゼントではなく、親から普通にプレゼントを贈られる暮らしであったはずだ。しかしそれは現実としては、手に入れることが最も困難なものだった。しかも、そうした状況に子供たちを陥らせた原因も親であったという哀しい現実がある。子供の愛し方を間違ってしまう親、子供の愛し方を忘れてしまった親、親としての自覚も責任感もない親。・・・罪のない子供たちが、そこでどんなに傷つけられたことか・・・。

その時出会った子供たちも、すでに中年と呼ばれる年齢に達している。彼ら、彼女らは、いまどんなクリスマスイブを迎えているだろう。希望の光は彼らを照らしてくれているだろうか・・・。毎年そのことが心にかかる。

でき得るならば、全ての子供たちのその後が、幸福であってほしいと願ってやまない。多感な子供の時期に、家でクリスマスを過ごせなかった分、その後の人生が幸多いものであってほしいと願ってやまない。彼ら、彼女らが、かわいい子供の傍らで、プレゼントを渡すことのできる家庭を作っていることを願ってやまない。

ひとりひとりの子供たちの顔を思い浮かべながら、毎年そんなことを考えている。

同時に思うことは、今も日本中に、クリスマスを自宅で過ごすことができず、親から祝ってもらうことができない子供たちがいるのだろうということだ。親から普通にプレゼントを贈られる暮らしの存在しない子供たちの胸の内を想像すると、言葉にできない哀しみの感情でいっぱいになる。

クリスマスを楽しむ人々の心や、幸せな気分を味わう人に水を差すつもりはない。この時間をおおいに楽しんでほしい。

しかし同時に、世間の喧騒とは離れた場所で、ひっそりと生きる人々がいることを、心の片隅に置きながら、我々が人として何をできるのかということを、少しだけ考える時間を持ってほしいと思う。そしてその思いが重なり合うことで、この国の未来が少しでも明るくなることを祈ろう。

聖夜の祈りは、ジングルベルの音が届かない場所に向けた祈りである。
ジングルベルの届かない場所


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