僕が人前でお話しする機会を初めて得たのは、当地域の老施協研究発表会であった。その時のテーマは、「痴呆老人の対応」であった。(当時は、認知症という言葉はなかった)※以下は当時の発言も含め、現在の呼称・認知症に統一して記事を書かせていただく。(ただし診断名は除く。)

それはもう30年以上前の話で、アルツハイマー型認知症が、アミロイドβというたんぱく質との関連で、脳神経細胞が壊死して発症するのではないかという仮説も一般的ではなかったし、(今でもこれは仮説の一つに過ぎないと言えるのかもしれない。)レビー小体認知症などはまだその存在さえも知られていない時代であった。

当時はポパテという薬が、「認知症の特効薬」として日本中で使用されていた時代で、老年痴呆症という診断を受けた人に、その薬が処方されるのは当然という風潮さえあった。しかしその数年後、ポパテを服薬した多くの方が脳梗塞を発症し、それがポパテの副作用とされ、劇薬指定され、今ではそうした薬害があったことも知る人が少なくなり、ポパテという薬剤名を記憶している人さえ少なくなっている。

そんな中で僕は当時、「医学や脳科学の分野において、今後認知症はどんどん研究が進み、治療法や予防法が確立されるかもしれないけれど、介護の現場の今は、それをただ待っているだけではなく、認知症の人がどのような状態に置かれ、そこで何を必要としているのかを考えつつ、具体的なケアの方法論を創っていく必要がある。」と主張し、様々なケースを取り上げて説明し、何をどうしたらよいのかという考え方を、いろいろな場面で発言してきた。

そんな経緯があって、いつしか僕は認知症のケアにも詳しい人とみられるようになって、介護福祉士養成校やホームヘルパー養成講座などでは、「認知症の理解」という講座の講師を務めるようになり、認知症サポーター養成キャラバンでは、サポーターを養成する際の講師役となる、「キャラバンメイト」を養成する講義を担当するようにもなった。

そして全国各地から依頼を受ける講演でも、「認知症の理解」をテーマにした講演を行う機会も多くなった。

しかし講演テーマとしてのそれは、僕以外にもたくさんの専門知識を持った講師が増えてきたことや、僕自身の興味が、認知症に特化した内容ではなく、ケアの本質論として認知症の人を含めたすべての利用者に相対する方法論として語る機会が多くなってきたことも相まって、認知症に特化した講演機会は、10年前より数は減ってきている。

そんな中、昨週末の日曜日、葛飾区介護サービス事業者協議会主催認知症研修会に講師として招待を受け、認知症に特化した内容の講演を行ってきた。

講演の骨子は、事前にパワーポイントファイルを送っており、ある程度ガイドラインはできていたが、僕の場合はそこでどのような内容を話すかについては、講演当日の雰囲気に左右されることが多い。雰囲気とは、誰が何を求めて会場に来ているかということを肌で感じという意味である。講演当日、僕の感性がどう反応するかでお話しする内容に違いが出てくることになる。

当初、葛飾講演受講者は、介護関係者が多いと聞いていたが、僕が講演前に感じた印象は、その事前情報とは少し異なるものだった。

僕が見る範囲では、思った以上に一般市民の方が数多く会場に来られている。しかもお年を召した方も多い。そうなるとあまり専門知識に偏ってしまったり、業界用語を使って話をしても、わかりづらいと思われる可能性が高いのではないかと考えた。

しかし一方では、介護関係者として専門職の皆さんも数多く来場されていたし、医師会の方々、行政職の方々もおられた。これらの方々には、日頃備わっているであろう、基礎的な認知症概論を展開するだけで終わっては意味がないことになろうとも考えた。そのバランスをどうとるか・・・。

この課題を解決するヒントは、具体的な事例を示したうえで、そこでどのような根拠を持ってケアの方法を考えていったかという過程と、その結果がどうであったかという検証結果をわかりやすい言葉で伝えることではないかと考え、「本来は認知症ケアという特別なケアはなく、それは人に対するケアである」ということと、「ただし認知症という症状を理解して対応を考える上では、認知症の基礎知識を、脳科学や医学知識を含めて、しっかり持つ必要がある」ということを明らかにしたうえで、様々な事例から、認知症の人の行動理解とその対応を明らかにすることに努めた。

サイン本その結果、受講者の皆さんがどう感じてくれたのかは、受講者の方々の評価に委ねるしかないが、講演後の質疑応答では、一般市民の方、介護関係者の方、医師会の方、それぞれからご意見と質問が出されたので、おおむね理解していただけたのではないかと思う。

たくさんの方々に僕の本も買っていただき、サインをさせていただいた。ありがとうございます。

僕たちは認知症の人の立場に立って、そこで認知症の人がどのような気持ちを持つのかを想像し、ケアの方法論を創造することが求められている。しかし同時に、認知症の人の気持ち・感じ方と言っても、認知症だから必ずこう感じるのだということではないことも一面の真実だ。そこに「認知症の人の気持ち」をベースにした典型状態が存在するわけではないのである。

そこでは、どのような状態に置かれた人が、どのようなパーソナリティを持ち、そこで何を感じているかという個別性へのアプローチが必要不可欠だ。同じ状況に置かれた認知症の人が、そこで同じように困っているわけではない。困っていない人もいれば、困っている人がいても、その困り方も様々である。そのことを想像する介護者に、「認知症の人は必ずこう感じているんだ」という思い込みがあってはならない。そこで表情を読み、心情を読み、空気を読むという感性が求められるから、ケアは難しくもあり、面白くもある。

面白いなんて言ったら、不遜だと批判されるかもしてないが、僕たちの感じる面白さとは、人間を愛し、人間に興味を寄せ、関心を持ち続けるという面白さであり、愛の反対語は、「無関心」であることを忘れずに、ケアに関わるという戒めでもある。認知症の人に対して、いつも同じケアの方法論が通用しないという個別性への、「関心」を常に持ち続けることが大事だということである。それは「人」に対する関心であるにほかならない。

認知症という冠を取り外して、一人一人の「人間」に関心を持ち、一人一人の思いに心を傾け、一人一人の声なき声を聴こうとすることが、僕たちが目指すケアであり、それは認知症ケアではなく、まさに人に対するケアでしかない。そういう方法論、そういう実践論を話す事しか、僕にはできない。

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