漫画家で、「ヘルプマン」の作者である、くさか理樹さんとは、2013年10月の鹿児島県社協老人福祉施設協議主催研修会でご一緒したことがある。(参照:青森から鹿児島への素敵な出会い旅)
くさかさんは、とても素敵で、かつ気さくに接してくれる方であり、常日頃から介護サービスに携わる我々に、勇気を与えてくれる様々なメッセージを発信してくれている。そんなくさかさんの漫画『ヘルプマン!! 介護蘇生編』出版記念トークイベントが開催され、その模様が6/4の週刊朝日配信ネットニュースに、『山積みの介護問題 「ヘルプマン!!」作者が解決意気込み』として配信されている。是非ご一読いただきたい。
ところでこの中の本文より下記の内容を引用させていただきたい。
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介護事業所所長、飯塚裕久さん(39)は、現場から見た胃ろうについて口火を切った。
「私は認知症状をお持ちの方を中心に介護しています。一日でも長く暮らし続けるためのサポートをします。『胃ろう』をつけるかどうか考える前に、ご本人の『大切な誰かのために一日でも長く生きたい』という意思を介護職が知ることが大事だと思います。『一日でも長く生きたい』とおっしゃった人のために『胃ろう』を選んだこともありました」(ここまで週刊朝日のネット配信サイトの本分より引用)
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飯塚裕久氏は、若き(この言葉をいつまで使えるのかは、あまり突っ込まないでいただきたい)介護業界のエースという存在で、僕のブログ記事にもたびたび登場している(あるいは登場させている)方である。(参照:飯塚裕久さんの登場するブログ記事一覧)
彼は、いつも輝いている介護業界になくてはならない人であるが、小規模多機能居宅介護の管理者としても実績を上げ、介護の実践化としての評価も高い人である。そんな彼の背景には一本筋がピンと通った揺るがない理念ああるのだろうと推察している。
このトークイベントで述べている飯塚さんの発言も大拍手である。おそらく飯塚さんが言いたいことは、認知症の人にも判断能力があって、その方の判断・決定は尊重されなければならないということだろうと思う。同時にこの発言は、終末期の判断とか、口から物を食べられなくなった際に何をどのように選択するのか、という問題に対する答えも含まれているように思う。
過去に書いた記事「胃瘻増設者の入所を認めていない特養について」で指摘したように、北海道札幌市のある特養では、「最期まで口から食べてもらい、自然なみとりを行うことを方針にしているため、胃瘻の方から申し込みがあれば、療養型の施設などを紹介しています。」と堂々と新聞取材に答えている。どうして誰かの胃ろう増設の判断に、施設や施設職員が関われるというのだろうか?自然死とは老衰のことを意味するが、だからと言って利用者本人が胃ろう増設による延命を望むことまで他人が拒む権利などないはずだ。
胃瘻は生活の質を必ずしも向上しないし、口から物を食べられなくなったら、そのまま自然に枯れ行くように亡くなることが最も苦痛が少ないという考え方はあってよい。そしてそれは決して間違いではない。しかしそうした情報を手に入れながら、自分だったらどうして欲しいのかということを選択・決定するのは個人判断であり、本人が判断できない状態の際には、(法的には」一抹の疑義が残されるが)その家族が判断する以外ないだろう。このことについて、サービス提供側が少しでも誘導・容喙(ようかい)するようなことがあってはならないのである。
僕は自分が行う「看取り介護講演」では、このことについて次のように考え方を示させていただいている。
・経管栄養とは医療技術の一つに過ぎず、安楽な終末期に繋がる必要な胃婁増設という考え方も成り立つし、経管栄養によって延命したいという希望もあって当然
・延命のために経管栄養にするかしないかは、治療にあたる医師が、本人の意思を無視して決めるべき問題でもないし、ましてや施設関係者などのサービス提供者が決める問題ではない
・経管栄養による栄養管理を実施し、回復を願い治療を続けることはあって当然
・対象者が、経管栄養を行うかどうかを選択した後は、その判断が良かったのか、悪かったのかさえ審判する必要はなく、対象者の判断を尊重すべきである
・できるだけ事前の本人の意思確認が望まれる(自分の死について語ることをタブー視させない)
そういう意味で、飯塚氏の発言内容は、認知症の人はなんにもできないわけではない、認知症の人が意思決定できる部分は尊重されるべきである、終末期の過ごし方も人それぞれで、個別の判断があってよいもので、口から物を食べられなくなった際や、回復不能の病状等になった際にも、「こうしなければならない」という決めつけや、価値観の押しつけがあってはならず、サービス提供者はそのことを絶対にしないと自らを戒めないとならないということを示していると思う。だから大拍手である。
これからもそうした事を看取り介護講演をはじめとした、僕の講演の中では伝え続けたいと思う。そうしないとサービス提供側の価値観の押しつけによる不幸がなくならない。良かれと思う悪気がない行為でも、人が不幸になることは取り返しがつかないのだから・・・。
僕の看取り介護講演としては、近直のものは、8月7日大阪市立住まい情報センターで行う、大阪市老連主催「看取り介護の視 点〜PDCA サイクルの構築による命のバトンリレー〜 」である。(大阪市老連のサイトはこちらをクリックしてください。)
人生の最晩年期を過ごす方々に、最期の瞬間まで安心・安楽な暮らしに必要な視点について熱く語る予定である。キーワードは「繋がっている」。看取り介護とは決して特別なケアではなく、日常介護の延長線上にあるということを具体的な事例などを紹介しながら示してみたい。お近くの方は、ぜひ会場までお越しいただきたい。
僕の施設で、僕の周りで亡くなられた方々が、天国から我々に送ってくださる声なき声。そんなメッセージをご紹介できればと思っている。
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感動の完結編。

受け入れる施設の職員体制や看護や介護技術が、何処まで対応できるか?
胃瘻に比べ、経管栄養の方の支援が大変で体制が取れない・・・・
様々な終末期を選択される方に対して対応できる施設は、地方では困難なことも多い事も現実です。
少しでもいいので、医療等にも対応できる「特養」に近づいていけたらと思います。
まだまだです・・・ 「在宅」 「医院」 「急性期病院」 「老健」 「特養」 「病院」 「医院」 「グループホーム」 「小規模多機能」
等、個人経営等抜きにして、本当の意味での役割分担がスムーズにできる世の中になればいいのになぁ〜
と思います。民主主義社会?では、難しいものですかね?・・・