僕が総合施設長を務める特養や通所介護で、僕自身が利用者と会話を交わす場面は、ほぼ毎日あると言ってもよいだろう。

その時僕は、丁寧語以外の言葉を使って利用者と会話することはない。認知症の人であっても、認知症ではない人であってもそれは変わりない。さらに利用者であっても、その家族であっても、同じ言葉遣いをしている。

当然のことながら施設入所者であっても、ショート利用者であっても、通所介護利用者であっても、言葉遣いを変えることはなく、すべての人に同じ言葉遣いをし、その場や人によって言葉を使い分けることはないし、使い分ける必要性を感じない。

僕のように、お客様である利用者に対して、常に丁寧語で接することが習慣化している人が必ず経験することは、「あなたのように言葉遣いが丁寧な人は始めてだわ」とか、「認知症の母にいつも丁寧に話しかけてもらって感謝しています」とか言われることである。

しかしそれっておかしい。

ほかの職業で、顧客に丁寧に話しかけないで成立する職業はあるのか?僕はそうした感謝の言葉を聞くたびに、介護サービスという職業の質の低さに哀しくなるのである。言葉遣いに気を使わない職員のプロとしての意識の欠如を恥ずかしく思うのである。

認知症の人に、なぜ友達に話しかけるような馴れ馴れしい言葉が必要なのだろうか?認知症の人は、そんな言葉遣いは喜んでおらず、むしろ馴染みの関係を築いている介護者の顔だって、毎日忘れるのであるから、その人たちは、「なんで年下の見知らぬ人間が、妙に馴れ馴れしく話しかけてくるんだ?」って、戸惑うか、怒るか、怖がるか、どちらかだ。喜んでいる人なんていないって。記憶が子供のころに戻ってしまっている人だって、言葉をすべて忘れているわけではないのでわざわざ赤ちゃん言葉で会話する必要はないし、それはむしろ認知症の人の混乱を助長させるだけの結果にしかならない。

お客様に対して丁寧な言葉を使わなくてよい職業があることのほうが異常だ。お客様に対し馴れ馴れしい言葉遣いをして、喜ばれると思う感覚の方が異常だ。そうした異常さを放置する場所には感覚麻痺が生じ、人の不幸さえなんとも思わない人間を生み出すだろう。僕たちの業界をそういう状態にしたままでよいとでもいうのだろうか。

介護の業界には、僕たちよりはるかに素晴らしい実践をしている達人のような人がいて、その中の幾人かは言葉遣いに気を使わず、端から見れば馴れ馴れしい言葉遣いをする人がいる。講演などでも平気で、「じいさん、ばあさん」と連呼する人もいる。

多分それは僕たちが届かないほどの超越した能力を持っていて、言葉を正さなくても相手に不快感を絶対にもたれないのか、そうであると勘違いしているだけなのだろうと思う。

しかし厄介なのは、そのような超越した能力を持っている人がいたとしても、それらの人が講演など公の場で、汚い言葉を使うことで、その汚い言葉だけをまねる輩が数多く出てくるということだ。それらの人が介護サービスの場で実践していることを同じようにできない人でも、汚い言葉を真似るのは簡単だから、そこだけ模倣する人が生まれる。

いくら介護の達人であるとしても、汚い言葉を使う感覚麻痺を助長させる功罪を考えると、罪深さの方が大きいと言えるだろう。だって達人技なんて普通の人はまねできないって。汚い言葉だけを真似る輩を増やし続けるほうが罪深いって。そもそもそこに存在する年上の人を、あえて「じいさん、ばあさん」と呼び捨てることに何の意味があるのか?それで喜ぶのは、漫談の世界だけである。綾小路きみまろにでもなりたいなら別であるけど、あんたが居る場所は、芸能界じゃなくて、介護サービスの場だろうに。

介護の業界で著名な講師の一人である三好春樹氏は、著書「ねたきりゼロQ&A」のQ52、言葉遣いにうるさい施設長、という問いの中で「言葉の強制は強制労働よりひどい」として次のように著述している。

そもそも私は施設長が介護職員に言葉遣いをよくしろ、と説教したり、チェックしたりすることは問題があると思っています。言葉には二つの側面があります。一つは規範としての言葉です。もうひとつは自発性です。言葉を通して自分自身の内面を表現するという側面です。同じ言葉を使っても人によって意味が違ったり、比喩になったりするのがそうです。人に言葉を強制するのは、こうした自発性を抑え、内面を管理することに他なりません。かつての社会主義国では権力によるこうした強制を拒否した人は、収容所で強制労働をさせられました。

お客様に対する言葉遣いの教育が、なぜ強制労働と結びついて論じられなければならないのだ?そうであれば他の産業で、接客教育を行うことはすべて強制労働と同じということになるぞ。それとも介護業界だけが特殊だとでもいうのか?それこそ感覚麻痺であり、世間の常識が介護の非常識だ。

そもそもお客様に対して、適切な言葉遣いをするということは、マナーとして当然であり、業務上のルールに過ぎない。それは個人のアイデンティティーを奪うものではない。

職場内のルールとして、業務中にお客様に対して使うべき言葉の最低基準を定めることが、どうして「自発性を抑え、内面を管理する」ということになるのだ。そうであれば職場にはいかなるルールも存在させられないぞ。こんなバカげた理屈はないし、こうしたバカげた理屈で、乱れた言葉を放置し、それを助長するような本を出している三好春樹氏という人物も、その功績を打ち消すほどの罪深さがあると言わざるを得ない。

三好氏の教えは、僕たちの学びになっている部分も多く、その部分は評価できるのであるが、それだけにその信者も多くて、このバカげた理屈を信奉して、わざわざ言葉を崩す馬鹿が存在し続けるという状況を生んでいる。僕の職場でも、言葉遣いをいまでも直せない職員がいるが、その大きな理由が、三好信奉であったりする。この罪深さは海より深いと言わざるを得ない。

馴れ馴れしい言葉がフレンドリーで、対人援助に求められる臨機応変さだという思う込から、そろそろ抜け出して、向かい合う利用者に対して、使ってよい言葉と、そうでない言葉をきちんと自覚して係ることを基本姿勢にしないと、汚らしく無礼な言葉遣いで傷つけられる人をなくせない。

汚らしく無礼な言葉遣いが、親しみやすさであると勘違いした人間の、麻痺した感覚によって行われる人権無視の行為をなくすることができない。

僕たちの世代で、なんとか介護のスタンダードを変えたい。そのために「介護サービスの割れ窓理論」を唱え続ける必要があるし、それを伝える旅も続けていく必要があると思っている。

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