理念や運動の目的を、簡潔に言い表した覚えやすい句・標語などにしたものをスローガンと呼ぶ。
そうしたスローガンを声高らかに唱えて理念や目的を達しようとすることは悪いことではない。
しかし同時に考えなければならないことは、スローガンは慎重に掲げないと、言葉足らずで真意が第3者に伝わらないことがあるということだ。理念や目標達成のためのスローガンを掲げるだけではなく、その真意を第3者にきちんと伝える努力をしないと誤解を受けてしまうことに十分注意せねばならない。
例えば全国老施協の掲げる、「科学的介護で自立支援」を達成するためのスローガン、「5つのゼロ」の中には、「胃ろうゼロ」という言葉がある。(これ自体もスローガンといって、よいだろう。)
そして「胃ろうゼロ」の意味は、こちらの資料で説明されているように、「適切なアセスメントと専門職の連携により、本人・家族も望まない胃ろうをなくします。」という意味である。
そうであれば、その考え方は決して間違っておらず、文句をつけるなにものもない。
きちんと専門家(ここに医師が入るのは必然だろう)と連携し、胃ろうの必要性等を説明したうえで、本人や家族がそれを望まないのであれば、そうした状況で胃ろうを増設して、強制的に体内に栄養を流し込む必要はないし、たとえ胃ろうを増設しないことを選択した結果、死期が早まったとしても、それは不必要な延命治療を行わなかった結果、本人や家族の意思のもとで、リビングウイルが実現されたと言ってもよいだろう。
そもそも自然死とは、老衰のことを表す言葉だ。明らかな病気は見当たらないけれど、加齢による老化に伴って個体を形成する細胞や 組織の能力が低下することで自然に生を閉じることは、極めて自然なことなのである。この時に不必要な延命治療をしないで苦痛を緩和する医療のみを提供することがリビングウイルという考え方であり、その延長線上に平穏死などという考え方もあるのだろう。
その際に、終末期における胃ろうは、機能状態や生命予後の改善は期待できないし、むしろ苦痛や不快感を増す場合があると考え、胃ろうを増設しないと決断することはあってよいと思うし、自然死できる人に胃ろうを増設して、強制的に栄養を流し込んで延命のみを目的とすることは、人の幸福とは言えないという考え方があってもよいとも思う。
しかしそれらはきちんと、胃ろうの適応か否かを判断したうえで、十分なる説明を行って、出来れば本人(それが難しい場合のみ、家族の判断と言うことにならざるを得ないが)が判断すべき問題で、胃ろうがQOLを低下さえるという決めつけで、他者に対して、胃ろうを造ることはダメだという考えを押し付けたり、経管栄養を行ってはならないと強要することはあってはならない。
それ以前に、胃ろうのすべてが不必要で、なくさなければならないという思い込みを人に押し付けてはならない。治療の過程で一時的に胃ろうによる栄養補給を行うことで全身状態が改善し、それによって手術を行うことができ、死の淵から生還する人もいるのだ。
以前にも紹介したが、富山の生きものがたり診療所の佐藤先生は、胃ろうを栄養補給に使うのではなく、末期がんの方が最後まで口から食物を摂取するために障がいになるであろう腸の通過障害を防ぐために、胃ろうを増設してそこから食物を排出することで最期まで経口摂取し続けることを実現した。
当施設では、食事が最大の楽しみであった方が、経口摂取不能の状態となったが、本人の意思を確認し胃ろうを増設したケースがある。その方は胃ろう増設後、最大の楽しみであった食事をするという行為を失ったが、その後2年以上、当施設での暮らしを続けられ、食事ができなくとも希望も笑顔も失わずに過ごされていた。
要は選択の問題なのである。そしてその選択の判断基準は、個人の価値観によって大きな差異があるということである。
であるにもかかわらず、老施協の関係者の一部の人々は、何の説明もなく、前提条件を提示することもなく、「胃ろうはゼロにしなければならない。」と公の場で発言している。このことは大問題であり、大きな誤解を生む要因であると言わざるを得ない。
現に僕は去年の3月、鹿児島で行われた九州地区のカントリーミーティング(全国老施協主催)の全体会議の中で、何の説明も、前提条件の提示もなく、「胃ろうはゼロにしなければならない。」とする21世紀委員の発言を聴いた。こういう人が会の司会とかコーディネーターをしているとどうしようもない。
鹿児島カントリーミーティングの際には、こうした発言の後に、僕が講演を行ったので、そのことに対しては強く反論と警告を行った。そのことは新聞記事にもなったし、多くの受講者の賛同の声もいただいた。
無自覚・不用意なる発言によって、誤解してしまう受講者がいるということは恐ろしいことだ。その結果「胃瘻増設者の入所を認めていない特養について」で紹介しているような施設が出てくるということの問題をどう感じているのだろう。
説明責任を果たさないスローガンの連呼ほど始末の悪いものはないということを自覚してほしい。
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今から約180年前にフランス人の政治学者アレクシス・ド・トクヴィルが書いた『アメリカのデモクラシー』の中の一説に、
「(略)民主的な世紀の人々が一般観念を好むのは、それが個別の事例を検討する手間を省いてくれるからである。そうした観念は、このように言うことできるとすれば、多くのものごとを一つの小冊子に取り込み、わずかな時間で大きな成果を挙げる。手早くざっと調べただけで、いくつかの対象の間に共通の関係を認めたと思うと、人々はそれ以上研究を進めず、このさまざま対象が互いにどう似通い、どう違っているか詳細に検討することなく、急いで全部を同じ定式にくくって、先へ進む。(略)」第2巻第1部第3章
私自身のことを言われてるみたいで気持ち悪いですが、一般化(鳥の目)と個別(蟻の目)を両立させ、正しい判断をするのは簡単ではないと思います。
もう一点気になりますのは、「個人主義」についてですが、
「(略)アメリカ人は自由によって平等が生ぜしめる個人主義と闘い、これに打ち克った。アメリカの立法者は、民主的な時代に本来的で有害な病を治療するのに、国民全体を代表する制度を与えるだけでは不十分と考えた。それに加えて、国土の各部分に政治の場をつくり、市民が一緒に行動し、相互の依存を日々意識させる機会を限りなく増やすのがよいと考えたのである。これは知恵のあるやり方であった。(略)」第2巻第2部第4章
地方自治、地域包括ケアにおける自立支援のひとつの意味かも知れません。時代状況も国柄も違い、一概に当てはまると思いませんが、紹介させて頂きました。