今週は東日本大震災から4回目の3.11を迎えるに当たり、関連した報道がたくさんなされた1週間であった。
ブログやツイッター、フェイスブックなどのSNSにも、3.11に関連した話題がたくさん書き込まれた。被災地に暮らす人々や、当事者である人々の回顧録、メッセージはどれも心を打たれるものであった。あらためて20.000人以上の人が亡くなったことの哀しみを感じる一週間であった気がする。
10日から11日にかけては、寒冷前線の影響で日本中が大荒れの天気になったが、それもまるで天が3.11を嘆き哀しんでいるように思えてならなかった。
ところで今年は、阪神大震災から20年目の年でもある。そう考えると、この日本という国は、この20年の間に、「大震災」と呼ばれる災害に2度も見舞われたことになる。それ以外にも新潟の大地震など、大きな地震被害は数多くあった。そうであればこれから先の20年も、そうした大地震と遭遇しないということにはならず、自然の脅威と向き合う対策が必要になるというのが、この国と、この国の民の宿命である。
その時に僕たちは何を考えれば良いのだろうか。
本来の復興とは、元通りにするだけではなく、同じ被害を繰り返さないように、新たな安全な生活環境を創ることだと思うのであるが、しかし現実のこの国の対応は、原発問題一つをとっても、全くコントロールされていない汚染水を、アンダーコントロールと言ったり、未来志向とは程遠い対応しか見えない。新しい安全な国土を創るという視点が垣間見えないのはなぜだろうか。
3月11日に、東京電力の社長が社員に向けて発したメッセージも、国民感情からはかけ離れたものだと思う。「被災地に雇用を」という以前に、あなたが口にすべきことは、まず「廃炉」だろうと言いたい。権力と金の亡者には、そのような当たり前のこともわからず、苦しんでいる被災者の姿さえ見えないのかと嘆きたくなる。
一連の報道の中には、「震災を風化させてはならない」という論調が見られたが、今現在、「風化」という言葉を使うべきではないと思う。なぜなら風化とは、災害等の対策が収束して、その記憶が無くなっていくことをいうものであるからだ。しかし東日本大震災と、それに伴う原発事故は全く収束していない。そんな時に、風化もくそもあるものかと言いたい。
行方不明者の方々の数も、いまだに2.000人を超えているそうである。最愛の人を失い、その遺体さえも発見できない人々の慟哭・・・。しあわせな家庭で暮らしていた家族を失い、ひとり孤独に生きている人々の哀しみ。そうしたものが渦巻くこの国で、僕たちは一体何をすればよいのだろうか。
愛する人を失った人々の哀しみを考えたとき、僕たちは愛する誰かがそこにいることの幸せをより強く感ずるべきである。それは恋愛感情にとどまらない、人間愛というレベルで考えるべきものだと思う。
亡くなった子供の弁当を作り続けている人がいる。亡くなった子供に手紙を書き続けている人がいる。行方不明の子供の骨を、この4年間ずっと探し続けている人がいる。自分が生き残って、家族が死んだことに負い目を感じて生きている人がいる。
そういう国に僕たちは生きている。そういう国で、僕たちは対人援助という仕事に携わっている。
そうであれば、僕たちは目の前にいる人々の支援行為に関わる際に、そこにいる人々に、人間としての愛情を注ぐことができることに感謝すべきである。人を愛することが日常的に必要になる職業に就いていることに感謝すベきである。愛すべき人々が、僕たちの支援の手を必要としてくれていることに感謝すべきである。
愛する人々の、普通の暮らしを護る介護。求められているのは何も特別なことではなく、当たり前のことでしかないのだということを忘れないでいてほしい。誰かのプライベート空間に介入して関わる以上、礼儀や基本知識と援助技術が求められるのは当然であるが、そこには人間として、普通に抱くべき他者に対する尊敬の念と、人としての愛情が必要であることをあらためて感じてほしい。
それは特別なスキルではなく、ごく当たり前の人としての姿勢でしかない。
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ブログやツイッター、フェイスブックなどのSNSにも、3.11に関連した話題がたくさん書き込まれた。被災地に暮らす人々や、当事者である人々の回顧録、メッセージはどれも心を打たれるものであった。あらためて20.000人以上の人が亡くなったことの哀しみを感じる一週間であった気がする。
10日から11日にかけては、寒冷前線の影響で日本中が大荒れの天気になったが、それもまるで天が3.11を嘆き哀しんでいるように思えてならなかった。
ところで今年は、阪神大震災から20年目の年でもある。そう考えると、この日本という国は、この20年の間に、「大震災」と呼ばれる災害に2度も見舞われたことになる。それ以外にも新潟の大地震など、大きな地震被害は数多くあった。そうであればこれから先の20年も、そうした大地震と遭遇しないということにはならず、自然の脅威と向き合う対策が必要になるというのが、この国と、この国の民の宿命である。
その時に僕たちは何を考えれば良いのだろうか。
本来の復興とは、元通りにするだけではなく、同じ被害を繰り返さないように、新たな安全な生活環境を創ることだと思うのであるが、しかし現実のこの国の対応は、原発問題一つをとっても、全くコントロールされていない汚染水を、アンダーコントロールと言ったり、未来志向とは程遠い対応しか見えない。新しい安全な国土を創るという視点が垣間見えないのはなぜだろうか。
3月11日に、東京電力の社長が社員に向けて発したメッセージも、国民感情からはかけ離れたものだと思う。「被災地に雇用を」という以前に、あなたが口にすべきことは、まず「廃炉」だろうと言いたい。権力と金の亡者には、そのような当たり前のこともわからず、苦しんでいる被災者の姿さえ見えないのかと嘆きたくなる。
一連の報道の中には、「震災を風化させてはならない」という論調が見られたが、今現在、「風化」という言葉を使うべきではないと思う。なぜなら風化とは、災害等の対策が収束して、その記憶が無くなっていくことをいうものであるからだ。しかし東日本大震災と、それに伴う原発事故は全く収束していない。そんな時に、風化もくそもあるものかと言いたい。
行方不明者の方々の数も、いまだに2.000人を超えているそうである。最愛の人を失い、その遺体さえも発見できない人々の慟哭・・・。しあわせな家庭で暮らしていた家族を失い、ひとり孤独に生きている人々の哀しみ。そうしたものが渦巻くこの国で、僕たちは一体何をすればよいのだろうか。
愛する人を失った人々の哀しみを考えたとき、僕たちは愛する誰かがそこにいることの幸せをより強く感ずるべきである。それは恋愛感情にとどまらない、人間愛というレベルで考えるべきものだと思う。
亡くなった子供の弁当を作り続けている人がいる。亡くなった子供に手紙を書き続けている人がいる。行方不明の子供の骨を、この4年間ずっと探し続けている人がいる。自分が生き残って、家族が死んだことに負い目を感じて生きている人がいる。
そういう国に僕たちは生きている。そういう国で、僕たちは対人援助という仕事に携わっている。
そうであれば、僕たちは目の前にいる人々の支援行為に関わる際に、そこにいる人々に、人間としての愛情を注ぐことができることに感謝すべきである。人を愛することが日常的に必要になる職業に就いていることに感謝すベきである。愛すべき人々が、僕たちの支援の手を必要としてくれていることに感謝すべきである。
愛する人々の、普通の暮らしを護る介護。求められているのは何も特別なことではなく、当たり前のことでしかないのだということを忘れないでいてほしい。誰かのプライベート空間に介入して関わる以上、礼儀や基本知識と援助技術が求められるのは当然であるが、そこには人間として、普通に抱くべき他者に対する尊敬の念と、人としての愛情が必要であることをあらためて感じてほしい。
それは特別なスキルではなく、ごく当たり前の人としての姿勢でしかない。
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