何らかの支援を必要とする人々にとって、介護サービス事業所や介護施設は、自らの身体をゆだねる場所でもあるのだから、そこでは安心と安全が担保されなければならない。

しかし多くの介護サービス利用者は、そこが介護サービスを提供する専門機関であり、介護の専門職が集まっている場所だと信じているから、自分を護ってくれる場所だと信じ、自分が安全に介護を受けることができるシステムがどうなっているかなどといちいち確認することもなく、事業者に信頼を寄せてサービス利用する場合が多い。ましてやそこで自分の身が、配慮に欠けた介護士の対応によって傷つけられるなんて想定もしていないだろう。

勿論想定外の事故はあるかもしれないと思っている人はいるだろうが、普通に日常ケアを受ける際に、事業者のあり得ない不注意や信じ難い確認ミスによって、自分の生命に危険が及ぶなんてことは想像さえしていないだろう。利用者の家族もそんなことをいちいち心配しているわけもない。むしろそのような心配をさせること自体が、サービス事業者の信頼性が揺らぐ要因である。

介護サービスを受ける際には、排泄や入浴という行為の支援を受けることもあるということであり、それは自分の裸をさらして介護を受けなければならないということだから、そうした行為支援を受ける人々にとって、羞恥心に配慮された適切な支援を受けるのは当然であって、それは高品質サービスの範疇ではないはずだ。

ましてや最低限の身体状況を護るという配慮は、介護という形のないサービスにとっては当然必要なことで、そこで利用者の身体を護るための方法がとられることは、配慮という言葉にさえならないほど当たり前のことである。高品質サービスというのは、そうした当たり前の、最低限のサービスを担保したうえで積み重ねられるものである。

だから良い介護をする前に、当たり前の介護をしなければならない。

高級食材を使った素晴らしい料理が提供される施設であっても、豪華な設備に飾り付けられた施設であっても、この最低限の基本的な方法が守られていない場所では、利用者の人権も身体も護ることはできず、それは介護とは言えないのである。

だが・・・また起こった。最低限のサービスレベルを担保していない人による、当然のことがなされていないことによる悲惨な事故。日本人にとって、もっとも心身をリフレッシュできる入浴という行為の最中に、火傷を負わせ生命の危機に陥らせるという悲惨な事故が繰り返された。

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産経ニュース
23日午前10時10分ごろ、浜松市北区都田町の高齢者介護施設「第二九重荘」から「入浴した女性入所者(85)がやけどを負った」と119番通報があった。女性は病院に搬送されたが重体で、集中治療室に入っている。

 静岡県警細江署によると、40代男性職員が午前10時ごろにリフトを使って女性を数分間入浴させ、湯船から出した後でやけどに気付いた。女性は胸から下半身にかけてやけどしていた。

 男性職員は「女性が『熱い』と言ったが入れた」と話しているという。施設が女性搬送後に湯温を調べると43度だったが、直前に浴槽に水を足していた。細江署は業務上過失傷害の疑いもあるとみて、男性職員から事情を聴くとともに、女性が入浴した際の湯温を調べている。

 男性職員はホームヘルパーの資格を持ち、1人で女性を入浴させていた。

NHKオンライン
23日、浜松市北区の介護施設で、85歳の女性が入浴中にやけどを負い重体となった事故で、介助していた職員は、女性が「熱い」と訴えたあとに、浴槽から上げずに水を入れて入浴を続けさせていたことが関係者への取材で分かりました。
きのう午前10時ごろ、浜松市北区都田町の介護老人福祉施設「第二九重荘」で、足が不自由な85歳の女性が入浴中にやけどを負い重体となりました。
女性は当時、施設の40代の男性職員から介助をうけていましたが、この職員は女性が浴槽に入った時、「熱い」と訴えたのに対して、浴槽から上げずに水を入れていたことが関係者への取材で分かりました。
この職員が女性を浴槽から上げたのは約3分後でしたが、女性はすでに皮膚に重いやけどを負っていたということです。
警察のこれまでの調べに対して、この職員は「故意ではなかった」と話しているということです。
警察は、業務上過失傷害の疑いもあるとみて、施設の関係者などから話を聞いて当時の状況をさらに詳しく調べています。
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2つのネット配信ニュースを見比べてみても、正確な状況がよくわからない。湯温は43度?しかしその温度では重体になるほどの全身火傷を負うことは考えられないのではないのか?実際の湯温はもっと高かったのではないかという疑問が生ずる。

それにしても利用者が、「熱い」と訴えた時に(おそらく現場では、単に熱いと訴えたのではなく、叫んだり悲鳴を上げたのと同様の状態であったろうと想像する)、なぜあわてて利用者を湯から上げようとせず、その声を無視して単に水を注入するだけだったのか?(それさえも本当に行われたかは定かではない)。

誰しも予想外の熱いお湯の浴槽に足を入れたり、手を入れた経験は一度くらいあるのではないだろうか?その時熱いお湯に手足を入れたまま、水を注いで耐えることができるかどうかを考えたなら、そんなことはできるはずもなく、瞬間的に手足を湯から出して、熱かった手足に直接水をかけなければどうしようもないはずだ。45度程度の湯温でもそのような状態はあり得るのではないだろうか。

ましてや介護施設という場所で、入所者に対して大切な入浴支援という基本サービスを行う際に、なぜ事前に直接湯に触れて温度を確認しないのだろうか?入浴支援とは、身体を清潔に保つためだけに行う支援ではなく、心身をリフレッシュして気持ちよくなっていただくための支援である。そうであるがゆえに、季節に合わせた、日々の気温の変化に合わせた湯温の確認はごく当たり前に、手で触れて行うべき行為であり、それは注意事項にさえならないような基本確認事項である。このことを決しておざなりにしてはならないのである。

昨年3月にも、グループホームの入浴において、同じような人身火傷を負わされた方がなくなられたニュースを紹介する記事を書いたことがある。(参照:当たり前のことができない恐ろしさ

なぜこんなことが繰り返されてしまうんだろう。本来はもっともくつろいで気持ちの良くなる湯船につかるという行為において、大やけどを負った人・・・痛かったろうなあ、苦しかっただろうなあ、辛かっただろうなあ・・・。こんな介護があってよいはずがない。

昨年の事故の際にも朝礼で、報道内容を紹介して、決して他人事に考えず、浴槽内の湯温やシャワーの温度を常に手で触れて確認するように訓示したが、その朝と同じように事故の報道記事を紹介し、注意を促さねばならないことに憤りを通り越して空しささえ感じてしまう。

僕の講演では、介護の誇りを感じてもらうためにオリジナル動画を観ていただくことが慣例化しつつある。その時にBGMに使っている曲は、AAAのLOVEという曲だ。その歌詞の中に、「僕らは手を取り合ってつながりあって、小さな世界を互いに支え合い、壊れないようにそだてるように、大切なこの愛を護っていこう」というフレーズがある。僕はこの言葉が介護の本質と強くリンクしているように感じて、この曲を使っている。支え合いによって護るのが介護だ、繋がりながら愛を育てるのが介護だ。僕たちの使命と誇りはそこに存在するはずだ。

そのために何が必要なのか・・・。

介護サービスに携わる人々は、もっと当たり前になろうよ。もっと当たり前を大事にしようよ。本当に悔しいよ。

なお重体だった女性は、その後お亡くなりになったことが25日明らかになりました。あまりにも哀しすぎる最後でした。ご冥福をお祈りいたします。合掌。

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