介護支援専門員等のソーシャルワーカーが、自宅で家族とともに生活している人を支援する際に、利用者のみに係っていては、生活課題の解決に結びつかない場合がある。
支援すべき利用者の生活課題に大きく影響を及ぼすものが、家族の抱える問題である場合、支援する対象者である利用者本人ではないからと言って、家族の抱える問題を完全に無視することはできない。
例えば精神的な疾患や、アルコール中毒などの問題を抱えている家族が家庭内にいる場合、そのことが利用者自身の解決すべき生活課題と密接に関係している場合がある。
そうしたケースの場合、当事者の通院のための付添いという行為について、介護支援専門員が直接手を貸すということは求められないし、すべき行為でもないと思う。
しかし当事者にとって、通院が必要であるにもかかわらず、実際には通院をしていないようなケースであれば、その家族の心のありように気を配り、場合によっては家族の言葉に耳を傾け、相談援助場面を意識的に作り、通院に結び付ける調整の役割を担うということがあってもよいはずだ。
そのような場合も、その支援行為に対する報酬は発生しない。ある意味それは全くの奉仕行為にしかならないから支援業務とはいえないのかもしれない。だが対人援助の専門家であるソーシャルワーカーが、支援行為として求められることを、経済的対価が発生するか否かという側面からしか判断しないのであれば、それは大きな問題だろうと思う。勿論、ソーシャルワーカーだからという理由で、すべての家族問題に奉仕的なかかわりを求めてよいわけではないが、担当する利用者の環境調整という側面を鑑みれば、家族支援はそこに含まれる場合も多いということに気付くべきである。
ソーシャルワークとは、人の生活上の困難を捉え、介入し、調整し、問題解決の援助をすることである。そこでは人間だけに問題があるのではなく、人と環境が交互に影響を与え合う生活モデルの視点が求められ、治療よりも援助が求められるといわれている。
そうであるがゆえに、ソーシャルワーカーは、援助者中心より利用者中心の視点を持ち、アドボケイトの視点を持ち続けなければならないのである。
その時に支援対象者の心の問題を含めた生活課題を解決しようとすれば、おのずと同居家族の心理的サポートという方向に踏み込まざるを得ない場合もあるのだ。
そのようなサポートを一切行わずに、利用者以外のあらゆる問題には目をつぶり、耳を閉ざし関わらないことで、利用者自身の暮らしぶりがよくならない結果となろうとも、それはソーシャルワーカーとしての責任が問われるような問題ではないのかもしれない。
しかし、「してはならないことをする」ということと、「しなくてもよいことをする」ということは違うと思う。後者には、「しなくてもよいけれど、できることがあって、そうすることによって、利用者を含めた家族の暮らしに改善が見いだせる」というケースもあるのだ。これを線引きが難しいから、一律「しない」という判断しか行わないとしたら、それは対人援助ではなくなるのではないだろうか。
ここの線引きは難しいし、判断は常に正しいとは限らない。だからと言って、「しない人」であってよいのだろうか?その時に我々が考えなければならないことは、ソーシャルワーカーとは、すべての人間を、出自・性別・年齢・身体的精神的状況・宗教文化的背景・社会的地位・経済状況等の違いにかかわらず、「かけがえのない存在」として尊重するという立場にあるということではないのだろうか。
かけがえのない人が困った状態に置かれているときに、手を差し伸べることに様々な理屈や理由が必要とされるのだろうか?
少子高齢社会の進行によって、家族問題はより深く家族の中だけに凝縮され、外部の機関が協力にアウトリーチをかけても表面化しないケースが増えている。
そうした社会情勢の中で、たまたま自分が担当する利用者のすぐそばで、社会的な援助を必要とする家族の問題が表出しているのであれば、対人援助のスペシャリストとして、それを放置するという選択肢はないと思う。
しかるべき支援機関につなげるための調整は、ソーシャルワーカーの社会的責務として行われるべきである。
認知症の人の数が増大する少子高齢社会では、認知症の親の問題が子に影響するケースにしばしば遭遇し、それはレアケースとは言えなくなりつつある。その時、我々の担当する対象者が子であるという理由で、認知症の進行によって親に生じている様々な生活課題に目をつぶってよいわけがない。なぜなら我々は、人の尊厳を護り、社会正義を実現する責務を持つソーシャルワーカーだからである。
そのための知識や援助技術を持つ対人援助の専門家だからである。指をくわえて見ているだけの人にならずに済む知識と援助技術を身につけている専門職だからである。
居宅介護支援事業所の介護支援専門員が、居宅サービス計画を担当する利用者と係る中で、たまたまその家族に社会的な支援が必要であることが明らかになった場合、居宅介護支援としての主業務の中で、家族の支援はできないとされても、ソーシャルワーカーとして対人援助に関わる専門家として、その家族の問題から目を背けることにはならないだろう。
そこにはソーシャルワーカーとして、生活上の困難を解決するために手を差し伸べるという視点から、その人に最もふさわしい援助機関等につなげるという行動が求められるのではないだろうか。
ここの基本姿勢を忘れてしまったとき、介護支援専門員等の支援者は、ソーシャルワーカーではなく、単なる所属機関の歯車にしか過ぎなくなるのだろう。
ソーシャルワーカーの基本は、機関に所属していても、機関の代弁者ではなく、機関の支援を受ける個人の代弁者であることを忘れてはならないと思う。人の存在を、かけがえのない存在として見る視点を、普通に持っている人がソーシャルワーカーであろうと思う。そうであれば、答えは自ずと決まってくるだろう。
支援すべき対象者は、時には所属事業の外に存在するかもしれないし、そこに手を差しのべる職業が、我々の職業ではないだろうか。
困っている人がそこにいる。困っていることを訴えられない人がそこにいる。困っていることさえ理解できない人がそこにいる。それを見つけたソーシャルワーカーのとる行動は、手を差し伸べる以外にないと思う。
そこに存在する、かけがえのない人を護ろうとする行為をしない、行動を起こさないという選択はないと思う。

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