とあるキーワードでネット検索をしていたところ、ある特養のホームページがヒットし、そのサイトを偶然見る機会があった。
そのサイトのトップページには、その施設が全国老施協の介護力向上講習を受講し、そこで教えられたとおり水分補給と歩行訓練等を行った結果、「おむつゼロ」を実現したという新聞報道の記事が紹介されていた。
しかしその新聞記事の画像の下には、※マークで但し書きが掲載されている。その文章を次に転載する。
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※記事中に「1日1,500mlの水分」という記述がございますが、安易な水分摂取量の増加は健康に悪影響 を及ぼす恐れがあります。心臓や腎臓などに何らかの疾患を有する方は特に注意が必要であり、当苑ではご利用者様の疾患や体格に留意し、倦怠感やむくみ(特に顔面や上半身)、胸の痛み、呼吸の状態、血圧の値、心拍数及び必要に応じて毎日同時刻の体重測定など健康状態の観察を行いながら利用者様ごとの状態に合わせて1日に摂取して頂く水分量の目安を決めさせて頂いております。ご自宅で生活されている方、または介護に当たられている方におかれましては、お医者様とご相談の上、水分摂取量の目安をお決めになられますことをお勧め致します。
(転載ここまで)
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ずいぶん回りくどい言い回しになっているが、要するに「1日1,500mlの水分」を目安にしていると言っても、一律全員にそのような量の水分摂取を行っているわけではなく、身体状況を毎日同時刻に確認した上で、飲水量の調整を行っているという意味だ。
もっと簡単にいえば、全国老施協の介護力向上講習で教えられたとおり、全員一律に水分を1.500ml/日摂取を行っているわけではないという意味である。
そしてこの施設は、一律に「1日1,500mlの水分」を摂取することは、倦怠感やむくみ(特に顔面や上半身)、胸の痛み、呼吸の状態の悪化、血圧の上昇、心拍数の上昇などにつながるという危険性に気が付いているのである。
そして何より重要なことは、このような配慮を行って、「1日1,500mlの水分補給」をしていない人も含めて、老施協基準の「おむつゼロ」を達成しているということであり、科学的根拠に欠ける「1日1,500mlの水分補給」など、何の意味もないということである。
むしろ個別アセスメントを伴わない1.500mlもの多量の水分摂取は、心不全や肺水腫、高血圧などをおこし、心臓・肺・血管といった、生きていくうえで最も重要な臓器に大きな障害を与える危険性の方が高いのである。
このように介護力向上講習を受講しても、その教えの「いいところ採り」をして、危険な過水対応を行わない施設ばかりなら問題はない。しかし知識もセンスも、プライドもない施設長や管理職員が介護力向上講習を受講し、そこでの出鱈目な教えを疑いもなく受け入れ、まるで新興宗教のように、利用者の「いやだ」、「助けて」という表情や訴えを無視して、介護力向上講習での「教え」を実践することそのものを目的化してしまっている。これが一番の問題である。
その結果が、「科学という名の悪魔は存在していないか?」で紹介しているような悲劇を生み出している。
この責任は、一体だれがとるというのだろう。
そもそも全国老施協基準の、「おむつゼロ」とは、パットに排尿しても、便がトイレやポータブルトイレでできておれば、「おむつゼロ」に該当するというもので、利用者全員がトイレで排尿をしているわけではないという、「まやかし」が存在している。しかも「おむつゼロ」は自己申告であり、例えば過去に僕が経験した例では、明らかに紙おむつに排尿しているのに、それを「大パット」への排尿と呼んで、「おむつゼロ」を実現している施設だと説明されたこともある。
こんな目標を実現するためだけに、利用者は3人がかりで引きずられるように歩かされたり、家族に見せられないような行為を、「ケア」と称して行わされているのである。
そうであれば、それは何のための目標であろうか?「おむつゼロ」の実態は、利用者の生活の質を良くせず、施設の偏った価値観を満足させるためだけのもので、非科学的な方法論でありながら、その偏った価値観の達成度を表彰することで、あたかも科学的根拠のある介護を行っていると世間を欺くアリバイ作りにされているのではないのだろうか?
僕たちが本来考えるべき目的は、利用者の暮らしが良くなり、幸せに暮らし続けることである。個別アセスメントを行わずに、利用者全員に「1日1,500mlの水分補給」を行い、おむつゼロを達成したとして表彰を受けている施設の職員は、そのことによって本当に利用者が不満なく、幸福に暮らし続けていると断言できるのだろうか?
施設の掲げた目標だけが達成されていても、利用者の満足度が伴わない方法論なんて、ケアと言えないということを理解しているのだろうか?
介護サービスの場で、高齢者が知らず知らずのうちに権利侵害され、尊厳を奪われる要因は様々であるが、一番たちの悪い権利侵害は、次の3点である。
・サービス提供側の価値観の押しつけを正しいと思い込む状態
・権威のある人に指導されることによって、根拠のない方法を正しいという思い込む状態
・利用者の暮らしの豊かさより、支援者の定めた目的が達せられたかどうかしか評価しない状態
現在の介護力向上講習受講施設で、その方法論をそのまま鵜呑みにしてサービス提供している施設は、まさにこの状態であると言える。この状態のたちが悪さとは、それを行っている人間に罪悪感が全くなく、自分たちは良いことを行っていると信じ込んで、そこで利用者が嫌だと言っても、拒否しても、それは利用者がわかっていないからだと訴えを無視し、それが許されると思い込んでいることである。
しかし同じ人であり、年上で人生経験の長い人々の嫌だという表現や、苦痛の表情を無視してよいという理屈はどこから生まれるのだろう。認知症の人であっても、嫌な思いは伝えることができる。それを無視してよいという根拠はなんだ?
いい加減に、盲信することの危険性を知るべきだし、根拠のない方法をトップダウンだからと言って、個別性にまったく配慮しない姿の醜さも自覚すべきだ。
いい加減、人を人と見ない方法論のおかしさに気がついてもよいのではないだろうか。
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それにより利尿剤や下剤を中止して水分だけで排便コントロールしようという考えです。