がんの告知が当然のように行われる時代になってきたように思う。

治療不可能な、「末期がん」の場合でも、告知と余命宣告が行われるのが当然と考える人も増えてきたように思う。

僕自身は自分の病状について告知してほしいし、余命宣告も行ってほしいと思う。その結果、僕自身の心の中の動きがどうなるかはわからないが、どうなったとしても、それは自己責任として受け入れる覚悟はある。自分の病状や余命を、自分自身が知らずに、家族だけが知って、そのことで家族が気を遣ったり、気に病んだりすることは嫌だ。そういう形で愛する家族を悩ませたくはない。

しかしこの考え方には、かなり個人差があるのではないだろうか。その考え方について、世代間の差もあるのかもしれない。

この国にはまだまだ、「治療不能な病状」は告知しないことが当たり前であった時代に生きてこられた方々が存在していて、その世代の方々の中には、自分の余命宣告を受けたくないと考えている人も多いのではないだろうか?

告知を受けることで、激しい精神的衝撃を受けると考え、あくまで隠し通して死を迎えたほうが好ましいのではないかという考えもあるだろう。

このことに関して作家の故・吉村 昭さんは、「日本人と欧米人は死に対する観念が異なる」、「それを情緒的といわれても良い、それは私たち日本人に染み付いたものだ」と述べ、余命宣告や治療不能の宣告を行うべきではないという考え方を示している。
(参照:看取り介護考〜死の告知。

現在介護保険の1号被保険者となっている団塊の世代の若いころには、癌の告知は普通には行われていなかったはずだ。そうであれば、治療不可能な癌の告知と余命宣告は行わないのが当たり前だと考えている人も多いのではないだろうか。

その世代の方々は、果たして自分の余命宣告を望んでいるのだろうか?

この問題は癌という特定の疾患に限って考えるような問題ではなく、治療不能な病状の告知ということで広く考えるべき問題ではないかと思う。

そして看取り介護や終活というものを見据えた場合には、医療関係者のみならず、介護関係者も、自らの職業の中で終末期である病状の告知と、余命宣告についてどうするのかと悩まねばならないケースがあると想定できるのだから、自分自身が対人援助の場で、治療不能な状態の人に向き合う時に、どのように対応すべきであるかが問われる問題として、この問題を考えなければならないのではないだろうか。

このことに一般論は必要とされないだろう。個別の判断として、ひとりひとり違う価値観を持つ人が、そのことをどう考えるのかという問題であり、「こうすべきである」という指導も示唆も、誘導もあってはならないと思う。

そして「こうしてほしい」という判断がされた場合には、そのことを良いとか、悪いとか、一切の審判をしてはならないし、いかなる条件も付けずに受け入れるべきだろうと考える。

リビングウイル(意思決定能力のあるうちに自分の終末期医療の内容について希望を述べることであり、延命だけの治療は拒否するが、苦痛を和らげる緩和治療は最大限に行ってほしいなどの意思を示し、記録しておくことである。)は、基本的に告知を前提に考えられていると思われる。そうではないケースはあるのだろうか?

そう考えると、自分が終末期にどのような医療を受け、どのような支援を受けて過ごしたいのかという表明や記録については、自分が終末期であると診断された際に、そのことを告知してほしいのか、告知せずに隠し通してほしいのかという希望をも、明らかにしておいた方が良いのではないかと考える。

自らの希望を明らかにすることにより、家族がそのことをどうしようと思い悩むということもなくなるのではないだろうか。父や母が決めたことを実行するということで、子や孫の心の負担は少なくなるし、むしろそこことは、親の希望に沿って看取ったという満足感にもつながっていくのではないだろうか。

愛する人々に対する命のバトンリレーは、自らの意思や希望を伝えることから始まるのではないだろうか。

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