介護施設は利用者の「暮らしの場」であるから、そこでは利用者の安全と安心が担保できる環境やシステムが必要である。そうしなければ安心して暮らし続けることができる場所にはならない。

そのために僕たちは、ヒヤリハットという形で、生活の中に存在する不具合を顕在化させて、その原因を分析し、対策を講じていく必要がある。そのためにはヒヤリハットに気付く感覚が重要になる。

逆に言えばヒヤリハットの撲滅を意識するあまり、ヒヤリハットに気付いても目をつぶったり、ヒヤリハットに鈍感な職員の方が、気楽に仕事ができるといった、「ヒヤリハットの潜在化」の要因があっては本末転倒である。

そうしないために日常業務の中で、おかしいと思う感覚を大事にして、そのことが業務改善・生活環境改善になることを周知徹底していく必要がある。管理者は職員に対して、ヒヤリハットに気づいて直せば問題なく、気づかず直さないことが一番の問題であるという意識付けを行うことが求められる。

ヒヤリハットに気が付かずに直さない限り、介護事故は必ず起きる。その介護事故の延長線上には、感覚麻痺による不適切ケアに気付かないという問題が含まれ、それはやがて虐待につながる危険性が高いのだという問題意識も求められる。

この感覚麻痺を防ぐためにはどうしたらよいのか?僕はこのことについて次のように指摘している。

難しことを実現するのではなく、当たり前の暮らしとは何かを問い続けることが介護の本質であり、当たり前のことを考えられなくなってしまう支援者によって、介護を必要とする人々の暮らしは守られなくなってしまう。そうした状況に陥らないために今日から、今から、介護の現場で求められること、できることとは、常に業務の中で、「それって普通」を合言葉にして、職員間で声を掛け合ったり、自分自身に問いかけることである。

そうはいっても、普通とは何かがわからないという人がいる。普通といったって人それぞれに尺度が違うだろうと言う人がいる。

そんなに難しい問題だろうか?当たり前や普通は、もっと簡単で単純な答えとして存在しているものだ。個人の価値観で大きく答えが違ってくるものが、当たり前や普通であるわけがない。

普通の感覚や尺度は違うだろうと主張する人は、反対のための反対論を唱えているだけか、ひねくれているだけだろうと思う。そんな考え方では建設的な意見は生まれないし、そこでは介護の品質保持など絵空事になるしかない。

自分の虫の居所によって、人の心を傷つけるような言動も許されると考えるのは普通の感覚ではない。

ルーチンワークとしての身体介護さえできておれば、身体介護を受ける人の気持ちに配慮しなくてよいという感覚は普通ではない。

排泄ケアを受けなければならない人の、羞恥心が配慮されなくてよいという感覚は普通ではない。おむつ交換をされている人の陰部が、廊下から丸見えの状態であっても、おむつさえ替えられておれば問題がないと考えるのは普通の感覚ではない。

人間のもっとも楽しみであるはずの食事が、動物のエサ以下の形状になって、無理やり口に突っ込まれて、苦しそうにそれを利用者が呑みこんでいる状態が許されると考えるのは普通の感覚ではない。

食事摂取さえさせておれば、食事介助をしている職員が、利用者の表情に気を使わず、職員同士で利用者を無視して、関係のない話題の会話に終始している状態が許されると考えることも普通の感覚ではない。

自分が客として入ったお店で、物を売る定員がため口で話しかけてきたら不快になるのに、介護の場では、利用者にため口が許されると考えることも普通ではない。

僕が求める普通の感覚とは、そうしたレベルのものであって、白黒の判定が難しいものではないのである。

そこでの尺度は、「世間の常識」である。世間一般で通用しないことが、施設の中だけで許されるとしたら、それは普通の状態ではなく感覚麻痺なのだ。

そんなことさえも理解できない、判断できないというのであれば、その人は対人援助に携わるスキルに欠けるとしか言いようがない。

それだけのことである。

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