昨日報道された、佐世保の高1女子殺害事件にショックを受けた人は多いだろう。
命を簡単に奪ってしまう事件。しかも高校1年生が加害者で、同級生が被害者であるということ。残忍な殺害方法と、死後の猟奇的な行動。どれもショックである。
15歳、思春期、人格形成ができていない時期・・・様々なことがが報道されているが、一度失われた命は取り戻すことができないということをわかっている人間が、端から見るといとも簡単に人の命を奪ってしまうということの異常さ。そのことを考えると、戦慄が走る思いである。
長崎県では、2003年7月に長崎市で中学1年の男子生徒が幼児を商業施設から連れ去って殺害する事件が発生し、2004年6月には今回の事件が起きた佐世保市でも、小学6年の女子児童が校内で同級生をカッターナイフで切りつけ、失血死させる事件が起きている。そのため両事件を受けて、県教委と佐世保市教委は、毎年それぞれ「長崎っ子の心を見つめる教育週間」「いのちを見つめる強調月間」として、命の大切さや規範意識に関する授業を集中的に行う期間を設け、学校ごとに講話や授業参観、地域交流などを実施してきたそうである。
そうした中で起きた事件であるから、関係者の方々のショックははかり知れないものだろうと想像できる。しかし関係者の努力がまったく無駄だったということではないだろう。
命の大切さを理解し、命の教育場面で感動さえ覚えた少年少女が、何かのきっかけで、その命を奪う行為に走るということが過去にも存在した。人の心とその闇。簡単に答えの見つかる問題ではない。調書に書かれた動機が、人の心のすべてでもない。ここに事件の難しさがあるのだろうと思う。人間社会の難しさも、ここのあるのだと思う。
たくさんの人々が、人の命の尊さを伝え続けても、こうした事件がなくならない。そのことに心を痛めている人は多いはずだ。
その中で、僕達が一人一人ができることはなんだろうか?僕たちは高齢者介護という対人援助の場で職を得ているのだから、今いる場所で、人の命の尊さ、人の尊厳を護ることの大事さ、そうしたものを見える形で伝えていくしかないのだろうか。
子供の教育に直接携わっている立場の者ではなくとも、大人がひとりひとりの人間を愛おしく思い、その命と尊厳を護ることを実践している姿を見せていくしかない。
人を人とも思わず、人を傷つけることを何とも思わない姿を少しでも見せてしまえば、子供たちは間違ったものを自我の中に抱え込んでしまうかもしれない。心の闇を抱え込んでしまうかもしれない。
いくら努力しても殺人という行為がなくなった社会も時期も存在しない。それは事実であろうが、人が人を殺めることの異常さを受け入れることはできない。ひとりひとりの力は微力で、場合によっては無力かもしれない。しかしあきらめてしまう先には、どのような荒野が待っているのかを考えたとき、僕たちに何もしないという選択肢はないはずだ。
僕たちは自分のいる場所で、できる命の教育を自分自身に課しながら、何よりも尊い命を護るために考え続け、表現し続ける必要があると思う。他人ごとではない。私たちが住む国で、私たちと同じ国に生まれた人が、わざか15歳という年齢で、理不尽に、突然に命を奪われたのである。
そういうことが起きないことが当たり前の国にしていくことに対して、他人事であるという人は存在しないと思う。そう思いたい。
最後に、被害者の方に心よりご冥福をお祈りし、ショックによる感情の高ぶりで、まとまりのつかなかった本日の更新記事を書き終えたい。合掌。
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