今週最初に飛びこんできた介護関連報道の中に、兵庫県伊丹市のグループホームにおける虐待と思われるケースがあった。

日曜の夜に、このホームに入居していた90代の女性2名が、顔にやけどを負い、このうち一人は肋骨を骨折していたという。そしてこのユニットに宿直勤務していた男性職員が、管理者に、「自分は何もしていない。どうしていいか分からなかった」と携帯電話で話した後に、行方不明で連絡が取れなくなったそうである。

何ともひどいことが起こるものであるが、残念ながら介護サービスの場では、このような信じられない虐待事例がしばしば明らかになっている。そしてそれは氷山の一角でしかないと指摘されたりする。

多くの事業者は、利用者の権利を守るために日夜努力を行い、適切なサービス提供に努めているのだろうが、このような事業者がなくならない限り、介護サービスに対する社会的信用は高まらない。

今回の虐待事例は、グループホームにおけるものだから、その被害者は認知症高齢者ということになるが、被害の状況を訴えられない認知症の人に対して、暴力や権利侵害が及ぶ事例は過去にも繰り返し見られている。

例えば拙著、「人を語らずして介護を語るな2〜傍らにいることが許される者」(黒本)の58頁「心の闇はどこから生まれるのか」で取り上げた、香川県さぬき市の特養のケースは、利用者に食事や薬を与えなかったり、足を縛るなどの虐待行為が常態化していたが、そこでは少なくとも5名の職員が9名の利用者に対し、このような虐待行為を繰り返しており、そのターゲットになっていた利用者は、いずれも認知症の人である。

家族等にも、そうした虐待行為を訴えられないから、表に出ないという意図が、これらの職員にあったのではないかと疑われるが、虐待理由について当該職員は、「介護の手間を省くためやった。」と言っており、そこに職業に対する使命感も誇りも、まったく感じることはできない。そもそもこうした行為は、教育によって防ぐことができるのだろうか?その人間の資質自体が、対人援助に関わってはならない資質ではないかと疑いたくなる。

ところでこうした虐待がなぜ引き起こされるのだろうか。その理由は様々であろうが、高齢者が権利侵害される要因を、虐待をする職員の側の要因として考えてみた。

まず一つには前述したように、「もともと対人援助に向いていない人によって行われる悪意ある行為」が考えらえる。

虐待事業者は、なぜ選択されるのか?」の記事で取り上げた広島県福山市のデイサービスの虐待事例や、「ある裁判の判決から考えたこと」で取り上げた、老健で認知症利用者に熱湯シャワーを浴びせ死に至らしめた介護福祉士などは、この部類に当たるのではないか?

また、「感覚が麻痺して、不適切な状態に気づかないか、たいしたことではないと思い込む」ことによって権利侵害に至る事例も多い。

認知症高齢者を雑魚寝させていた施設の公表情報」で取り上げた施設の職員の多くは、こうした感覚麻痺に陥っていたと思われる。そして汚い言葉遣いに傷つく数多くの高齢者がいるということに気が付かない人々も、こうした感覚麻痺に陥っていると言えよう。だから僕が提唱する「介護サービスの割れ窓理論」では、言葉を正して、言葉の乱れが心の乱れとならないようにすることが大切だと主張している。

さらに、「知識がないことによって、不適切な状態に気が付かない」という権利侵害もある。「人を語らずして介護を語るな〜masaの介護福祉情報裏板」(白本)165頁の「見捨て死の現状」で取り上げたグループホームの職員の多くは、このホームで行われていた、「看取り介護」という名の「見捨て死」を、不適切な状態と気が付かず、管理者の言うがまま、「これがグループホームの看取りなのだ」と思い込んでいたという無知の罪がある。

最も厄介な権利侵害は、「サービス提供側の価値観の押しつけを正しいと思い込む状態」、「権威のある人に指導されることによって、根拠のない方法を正しいと思い込む状態」、「利用者の暮らしの豊かさより、支援者の定めた目的が達せられたかどうかしか評価しない状態」で引き起こされるものである。

これは指導が正しいと思いこんで、高品質なサービス提供であると信じて行われているから、是正力が働かない。そのために一種の宗教のように、集団でひとつの方向性しか見えなくなり、権利侵害が継続して行われ、密室化していくという恐ろしさがある。

これを防ぐためには、利用者の意思や希望を確認するだけではなく、そこで行われているサービスの過程や結果において、利用者の苦痛はないか、嫌だという声は無視されていないか。そこで行われている方法論のすべてを利用者の家族など、第3者にオープンにできるかという検証作業を、日常的に行っていくことである。

そういう意味では、過去に僕のブログ記事のコメントとして寄せられた情報の中の、「座位がまともにとれない方であってもポータブルトイレへ極力誘導させられ、無理やり座らされて苦痛にゆがんだ表情は無視されます。」、「歩行訓練になるともっと悲惨で、片麻痺・拘縮のある方を3人、4人がかりで歩行器で引きずるのを歩行訓練と称しています。 しかもそれは家族には見せません。」といった状態は、ケアではなく権利侵害そのものだと思うのである。

※8月16日(土)14:00〜16:00、和歌山ビック愛(和歌山市)で行われる、和歌山地域ソーシャルネットワーク雅(みやび)主催「介護の詩〜明日へつなく言葉」出版記念講演会in和歌山では、「支援という名の支配〜高齢者虐待の現状と課題」というテーマで120分講演を行います。現在参加申し込み受付中です。参加希望される方は、リンク先よりお申込みください。どうぞよろしくお願いします。

和歌山地域ソーシャルネットワーク雅(みやび)の皆さんが、素敵な動画を作ってくれました。ぜひご覧ください。


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