介護を必要とする人が、必ず不幸であるとは限らない。
幸福な暮らしを送っていたうえで、さらに生活を豊かにするために介護を必要とする人は数多く存在する。
生活が豊かになるという意味は、不便を解消して生活が快適になるということであるが、快適を求めることは、単なる快楽追求とは違うものであり、求められる視点である。そのためにも介護支援は必要とされるのである。
よって我々は介護を必要とする人に、「不幸で可哀そうである」などというレッテルを貼ることは許されない。変な偏見をもつことなく、介護を必要とするという状況を正しく理解するだけで十分である。
一方では、必要な介護支援が適切に受けられないことで、生活上の不便が生じ、生活課題がずっと解決しないままの人も存在する。この場合は、その置かれた状況によっては、苦しい不幸な状況であるといえるかもしれない。
そうした状況の把握は不可欠で、利用者の不幸の原因、苦しさが解消されない理由をきちんと見つけ出して、それに対応しなければならない。
それはケアマネジメントという手法でアプローチする場合もあるだろうし、ケアサービスそのものの中で、想像力を酷使してアプローチする場合があるかもしれない。アプローチの方法も、アプローチする人も様々なのである。
辛く苦しい状況に置かれている人に対してアプローチする人を、限定的に考える必要はなく、かかわる人々全員でアプローチする必要があるが、介護保険制度の中の居宅介護支援でいえば、そのアプローチが、介護にかかわる人々の個人レベルで、各自バラバラに行われ、利用者にサービスをつなげる部分で混乱が起きないように、介護支援専門員が調整役・まとめ役となって多職種協働のチームを作るということになっている。
だからと言って、それが介護支援専門員という資格を持った人だけしかできない役割だとか、ほかの職種の人々が、そのような視点を持つ必要がないかといえば、決してそうではない。介護を必要とする人は介護保険制度の対象外の人もいるのだから、臨機応変に介護支援を提供する責任を持った人という立場で、そのアプローチの在り方を考えるべきである。
介護とは、こうした辛い状況の人の、辛さの原因を解消するために行われる行為で、介護支援を受けることそのものが、辛さを感じることにつながってしまえば、それは介護という名の無理強いに過ぎなくなる。
何か一つの目的を達成しようとするために、人の不幸や辛い表情を無視することは許されない。自立支援が大事だといっても、そのための方法論に、人の暮らしを無視して、人のつらい表情を無視するものが含まれているならば、それは果たして介護と呼ぶことができるものなのであろうか。
辛い表情で日々の暮らしを送っている人がいるとしたら、そうした辛い表情が毎日続くことは異常なことだという当たり前の感覚をもって、介護支援に携わっていかなければならない。辛い時間を毎日すごさねば日々の暮らしが完結しないという異常さを見つめる視点を失ってしまえば、そこでは支援という名の支配が行われているだけの結果しか残さない。
これは怖いことだ。
全国老施協の介護力向上講習会で提唱されている、個別アセスメントのない、一律1.500ml水分摂取は、支配ではないといえるのか?おむつをしないという目的だけのために、座位姿勢がどうとれるのかというアセスメントのない状態でのトイレやポータブルトイレで排泄を強いる介助は支配ではないと言い切れるのか? 5秒つかまり立ちができたら、必ず全員が歩行器による歩行訓練をさせられるというのは支配の構造と言えないのだろうか?
なぜなら、そこではどのような状況が生まれているのか、「賞される資格があるのかを自らの良心で判断して下さい」を確認していただき、真実を知っていただきたい。
介護は人の暮らしを豊かのするためにあるものだ。辛い表情の人を幸福な表情に変えるために介護は存在する。何か一つの目的を押し付けて、辛い表情をしないと日々過ごせないという状態は、介護支援の目的にはならない。
辛いという文字に、一を加えると幸せという文字になる。我々は辛い人が、幸せになるために加えるべき一という文字が、その人の周囲のどこにあるのかを探す役割を持っている。その一を見つけて、辛い表情をしている人に適切に一を足して、幸せにすることが求められている。

辛い表情を無視して、介護サービス提供側の決め事や目標を、無理やり押し付けるのが介護ではない。
その大事なことを忘れてしまっている人が多すぎるのではないだろうか。
(13:30追記)
人の幸せにつながる一を探すための介護が、ある偉い先生の思いこみ理論によって、一を探すアセスメントを放棄し、辛いつらいという利用者の表情を無視する方法論にすり替わる。
それが取り返しのつくことならまだ良いが、そこではもしかしたら命が奪われているかもしれない。こんな状態を1日でも1分でも放置し続けている職能団体って意味があるのか?
恥を知るべきは、そういう施設のトップであるが、組織や上司の命ずるままに、利用者のつらい表情を無視できるあんた。どの面下げて、介護のプロって顔してんだよ。トイレで排泄できる人が1000人増えても、一人の命が奪われているとしたら、あんた責任とれるのか!!
和歌山地域ソーシャルネットワーク雅(みやび)の皆さんが、素敵な動画を作ってくれました。ぜひご覧ください。
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特養に勤めているshigeと申します。
masaさんのブログを毎回読ませて頂き、考えさせられております。
以前からシェアをしておりますが、今回の記事もシェアをさせていただきました。
勝手に申し訳ありません。
その人が求める生活や尊厳を無視した介護支援は支援では無いと心に刻んで仕事をしています。
が、自分が勤めている施設でも科学的介護遂行中であり、オムツ外しでクリスタルガラス?の表彰楯が飾られています。
現場では愚痴はでますが、上からの方針だから仕方ない嫌なら辞めるしかないという空気で、気付いたら介護員6割が未経験で半年以内の新人職員になってしまいました。
このような状況で異議を唱える事も出来ない状態です。
なんとか自分が関わる利用者様だけには日々笑顔で生活出来る環境の提供をしているのが現状です。
どうしたら、新興宗教のような呪縛から当たり前の支援に戻れるのでしょうか…
愚痴になってしまいました
すみません
masaさん
これからもブレない活躍を期待しております。