5月1日のカレンダーを眺めて思ったことは、今年も1年の1/3が過ぎてしまったのだということだ。

新年度を迎えて、職員の入れ替わりもあり、人材不足の介護の現場ではいろいろなことがあり、バタバタして季節を感じる暇もなかったというのが本音である。これからもいろいろな問題と向かい合って行かねばならないのだろう。少しは季節を感じるように、心に余裕を持って過ごしたいと気持ちを新たにしているところである。
緑風園の桜
この時期、北海道はまだ寒い日も多いのだけれど、今年の4月は、各地で観測史上最高の日照時間だったそうである。そのため桜の開花も例年より速そうだ。そう、北海道はこれからの時期がお花見シーズンなのだ。

緑風園の周囲にも、たくさんの桜の木が植えられているが、今朝見ると一般の桜の木が花を咲かせていた。ただし開花している木は、この一本のみである。

この木は、「源泉かけ流し」で24時間いつでも入浴可能な、天然温泉浴質の排気口のすぐそばに植えられている木で、排気口から流れ出る温かい空気の影響を受けて、毎年最初に花を咲かせる木である。この木に花が咲いてから、1週間後くらいに他の木にも花が咲くはずである。そうなると温泉浴室では、満開の桜の花を見ながら湯船に浸かれることになる。エゾヤマザクラから遅咲きの八重桜まで、見ごろは来週あたりから、5月の末くらいまでである。

日本人が愛してやまない桜の木。4/24に発刊された僕の著書、「介護の詩〜明日へつなぐ言葉」の中で、「誰からも親しまれる桜の花のように、誰からも親しまれる感じのよい介護士さんになってください」という一文を書いている。対人援助サービスは、マニュアルに沿って決めごとをこなせるというだけでは駄目なのだ。そこには一人ひとり個性を持った人間の暮らしが存在しているのだから、だれもが気持ちよく過ごすことができるように相手の感情に配慮したサービスが求められる。それは一人ひとりの個別性に配慮することとイコールだ。サービス提供者が、サービスを受ける人に好かれるということもスキルの一つである。そのために感じのよい介護職員であってほしいと思う。

新年度から対人援助の場に職を求めた人々も、誰かの心に咲く花のような存在になろうと頑張っている人がたくさんいるだろう。感じのよい花を咲かせてほしい。

ところがせっかく花を咲かせようと思っているのに、花を咲かせる環境を奪う人々がいる。その人達に、そんな気がなくとも、自分達の行っていることが正しいと思いこんでいたとしても、結果的に誰かを不幸にしてしまうのであれば、その責任は誰がとるというのだろう。

昨日、僕が昨年の12月に書いた、「ご入居者はモルモットではないという叫び」にコメントを書いてくれた方がいる。しかしそのコメントとは、あまりにも哀しい内容で、利用者の苦しげな表情を無視して、「思いこみ」のケアを強制している職場で、利用者の苦しみを見ることに耐えられず、退職願を出したという内容である。

個別性に配慮しない一律の対応。施設長が神のように君臨し、その方針から一歩も外れてはいけないという強制サービス。それによって心と体を傷つけられる人々。こんなことがあってよいのだろうか?

桜の花は種類が同じでも、一本一本の表情が違うように、人間の個性も様々なのだ。だから個別のアセスメントが必要とされるのだ。「〜しなければならない。」ということにも、必ず例外があるのだ。それなのに一律の決められたケアを提供しないとならないという強制。その強制によって一律の方法でサービスを受けざるを得ない人々の苦しみ・・・。

高品質のサービスを提供することは大事だが、その基盤は当たり前のことが、当たり前にできていて、利用者の方々が不快な思いをしないということである。よいサービスを作る前に、嫌だと思われるサービスをなくして、利用者を不快にさせないことが求められることだ。その上に品質を積み上げていかないと、対人援助サービスは、サービスを提供する側の自己満足で終わってしまい、それを利用する人々の哀しげな表情や、苦しげな状態を見逃して、不幸を作る結果に終わってしまう。

そうしないためにも我々は、常に利用者の表情に気を使い、苦しげな表情、哀しげな表情の原因が何かという事を徹底的に追及し、その原因をなくしていかなければならない。

しかしコメントを寄せてくれた人の施設では、その表情を無視して一律の決められた方法を護ることだけが優先されている。誰のための、なんのためのサービスなのか、本末転倒も甚だしい。

脱水は意識レベルの低下に繋がるし、覚醒状態を悪化させる。それは事実だ。しかし意識レベルの低下や、覚醒状態の悪化が、すべて脱水が原因であるという考えは間違っている。その原因も様々なのだ。

施設で暮らす高齢者全員が、1日1.500ml以上の水分を摂取しないと生活の質が下がるなんて思いこみは、いったいどこから来るのか?

この講習では利尿剤を服用している人には、1日1.800mlの水分補給を目指すように指導されているという。しかし利尿剤を服用している人に対して、利尿作用があるからさらに多くの水分が必要だという考え方は命の危険にさえなる。利尿剤を服用しているということは、心疾患など原因があって処方されており、それらの人は過度な水分摂取は内蔵ダメージにしかならないというのは、ある意味常識だろう。一般的な医学的知見だろう。それをなぜ、どういう理屈で否定できるのだろう。

その方法が間違っていれば、いずれそういう方法論は淘汰されると言っても、今現実にこのコメントに書かれているように、苦しんでいる人はどうするというのか・・・。それは淘汰される過程の1時期にたまたまそこにいる人に過ぎないから無視してよいというのだろうか?

今もその場所で、苦しがっている人々がいると思うと、僕はとても切なくなる。介護という名の罪を感じてしまう。こんなことでよいとは思えない。本当に哀しい。

介護・福祉情報掲示板(表板)

4/24発刊「介護の詩・明日へつなぐ言葉」送料無料先行予約キャンペーンのインターネットでのお申し込みはこちらからお願いします。

4/24発刊「介護の詩・明日へつなぐ言葉」送料無料先行予約キャンペーンのFAXでのお申し込み。は、こちらから用紙をダウンロードして下さい

人を語らずして介護を語るな 全3シリーズ」の楽天ブックスからの購入はこちらから。(送料無料です。