昨年5月、フェイスブックで繋がっている方から次のようなメッセージをいただいた。
老健施設に勤務する介護職員、看護師等を対象に、「老健施設におけるターミナルケアの在り方」について5時間程度の研修会を企画するのですが、そのような研修会自体あまり開催されていないようで、講師をしていただけそうな方を探すことができませんでした。 菊地様のお知り合いで、どなたかそのような研修会の講師が可能と思われる方がおりましたら、お知らせいただければありがたいと思っております。
千葉市周辺でそのようなテーマで話ができる人の心当たりはないが、在宅でターミナルケアに関わって、素晴らしい活動をされておられるお医者さんなら幾人か心当たりがあることを伝えたが、医師の対応ではなく、施設職員のターミナルケアにおける実践論が聴きたいということであったので、特養も老健も基本的なケアや理念は変わりないと考え、僕自身が講師をお受けして、8月に「介護老人保健施設におけるターミナルケアの視点」というテーマでお話ししてきた。
その後、千葉県高齢者福祉施設協会主催の特養等の職員に向けたターミナルケア研修が千葉市で開催されることになり、8月の講演を受講した方の紹介で、僕が再び千葉で看取り介護講演を行うこととなり、今月初め千葉県教育会館で180分の講演を行ってきた。
僕は当日移動で午後からの講演であったが、その研修会は、午前から通しで行われており、午前中にグループ討議が行われ、午後からの僕の講演直前にその報告・発表が行われていたので、どんなことが話し合われているのかを確認して、僕の講演で話すことの参考にしようと一通り報告を聴かせていただいた。
そのなかで、看取り介護を実施できないネックとなる状況の一つに、「施設で利用者の心臓が停止し亡くなったと考えられる場合でも、救急車を呼んで、医療機関に搬送して死亡確認しなければならない。」という発言があって驚いた。
しかしそういう施設は千葉市のその施設に限った事ではなく、翌日訪れた鹿児島の施設の方からも同じような状況があることを聴いて、さらに驚いた。
心停止している人を救急車に乗せて、救命ではなく死亡確認のために医療機関へ搬送するというのは、僕から言わせれば「問題」というより「漫画」の世界だろうと思った。
そもそも救急車は、死体を搬送するものではないが、医師による死亡確認がされていない段階で、救急救命士等が死亡診断するわけにもいかないために、「生きているもの」として、そのような搬送が行われているということだろう。
本来それはあり得ないし、そんなことがあるということは、本当に救急救命搬送が必要な人にとって大迷惑である。
こうした施設では、そこの施設所属医師はいったい何をしているのだろう?
下の図は厚生労働省が出している死亡診断書(死体検案書)記入マニュアルに記されているものであるが、普段施設利用者の健康管理に関わり、症病治療を行っている施設所属医師なら、施設で死亡確認して死亡診断書を書くだけでよいだろう。そのために医師が施設に行くのは当然の義務である。

あまり多い例ではないだろうが、ショートステイ利用者が死亡した場合で、施設所属医師が診療したことがない場合でも、わざわざかかりつけ医師の所属する医療機関に死体搬送しなくとも、施設所属医師が死体を検案して、異常がない場合は「死体検案書」を発行できることになっている。どちらにしても死亡確認のために、施設で心停止した人を救急車で医療機関に搬送するなんて不可思議な状態は起こり得ない。これを何とか改善しないと、看取り介護なんて実践できるわけがない。
またよく問題として挙げられる事であるが、「看取り介護対象者」の容態が急変した場合に、救急車を呼ばなくて倫理上の問題はないのかということである。
こういう質問が出ることさえおかしいと思う。
看取り介護対象者とは、医師によって「一般的に認められている医学的知見に基づき回復の見込みがないと診断された人」である。回復の見込みがないのだから、救急救命が必要な状態になることはほとんど想定されないだろう。
(ほとんどという表現は、医師ではない僕であるがゆえに、僕の知識範囲を超えた想定することができないケースがあることを完全に言いきれないからに過ぎず、普通に考えればないと思う。)
看取り介護で一番大事なことは、最期の瞬間まで「安心・安楽」に過ごすということだから、それはどのような想定状況まで考えられるのかということを、日ごろからきちんと話し合っておけば、そのようは変な疑問は生じないだろう。
我が国では現在、医療機関で亡くなる人の数が8割弱と圧倒的に多くなっているが、昭和26年(1951年)においては、在宅で亡くなる方が82.5%で、病院と診療所で亡くなる方は、わずか11.7%であった。その数字が逆転して医療機関(病院と診療所)で亡くなる方が5割を超えたのは昭和51年である。我々が子供の頃は、在宅でたくさんの人が死亡していたはずだ。その時、医師が枕辺にかけつけるのは、まさに死亡診断のためであり、息を引き取る瞬間に、医師や看護師がそこにいたわけではない。その時何か重大な問題が生じたとでも言うのだろうか。
特養における看取り介護の実践とは、日本人の死に場所が医療機関ということが一般的になって、わずか30数年で失ったものは何かということを問い続け、もう一度安らかな終末期の支援を取り戻す試みではないかと思う。日本人の歴史を作ってきた、命のリレーの場所を取り戻すことではないかと思う。
息を引き取る瞬間に、医師や看護職員がいなくても看取ることが当たり前に行われていた社会の方が、寂しい状態で死ぬ人が少なかったのでなかったのかということを、今一度考えてみる必要があるだろう。
介護・福祉情報掲示板(表板)
「人を語らずして介護を語るな 全3シリーズ」の楽天ブックスからの購入はこちらから。(送料無料です。)
その時に涙を流されたのですが、何の涙だったのかわかりません。
ご家族がその場に立ち合うことは叶わなかったのですが、感謝の言葉をいただき本当にホームで看取らせていただくことができたことをありがたいと感じています。