昨日まで鹿児島県で行われた全国老施協主催の「カントリーミーティングin鹿児島」に参加してきた。

最終日2日目のトリとして、「支援という名の支配〜介護サービスの現状と課題」という90分講演を行ってきたが、そこでは僭越ながら老施協の21世紀委員会等の皆さんに対して、科学的介護を標榜しながら一方では個別アセスメントの伴わない過度な水分摂取を強要させるかのような講習会を実施している事について疑問を投げかけてきた。

実は初日の講師控室で、今回の講演で同じく講師役を務めた厚労省・老健局の懸上課長補佐さんが僕の講演ファイルを見て、「これ話しするんですねえ」と驚かれていた。老施協が竹内理論から抜け出すのは無理ではないですかとも指摘された。変わる変わらないはともかく、誰かがどこかの早い時点で、この問題は老施協に直接疑問を投げかけないとならないと思うという事を、その際にお話しした。

ご存じのように全国老施協は、「科学的介護」を目指すとしているが、これが実に分かりずらい。本来スローガンなり、キャッチフレーズなりは、その言葉を聞けば具体的な何かが明確にならずとも、漠然としてでも伝えたいものがイメージできなければならないはずだが、この言葉からイメージできるものはないと言ってもよい。だから説明が必要になる。そういう言葉をスローガンにするセンスはどうかなと思う。それはさておき科学的介護の意味である。

初日に、老施協が目指す「科学的介護」とは、科学的根拠(エビデンス)がある介護という意味であり、そこにはサイエンスが存在しなければならないと説明がされた。

僕の講演では、そのことを受けて、そうであるならなぜ介護力向上講習会では、個別のアセスメントを無視して、利用者全員に一律1.500mlの水分補給を強制しているのか、そこにどのようなエビデンスやサイエンスがあるのかという疑問を呈した。

そして僕の施設で、トイレで排泄ができていなかった脱水傾向にあった人の水分摂取方法を見直して、排せつリズムをつかみ、トイレで排せつ介助ができるようになったケースの、「施設サービス計画」を例示し、その方は食事以外に1.300mlしか水分補給を行っていないが、その量をどのように導き出したかという根拠(個別のアセスメントの結果)を説明した上で、この方にさらに200ml以上の水分補給が必要だという根拠なり、科学なりを示してくださいと問題提起した。
(※この方は食事が十分摂れない方であったため1.300mlという数値となったが、食事が全量摂取で来ている方の場合は、同じ条件であれば必要な水分摂取は1..000mlから1.100mlとさらに少なくなる。)

講演後の会場に於いても、その後に於いても、この問いかけに答えてくれる人はいない。むしろ講演後に、たくさんの受講者から僕が話した内容が正論であるとか、その通りで日ごろの疑問が解消されたという声を数多くいただいている。

この問いかけに適切な答えを出さない限り、老施協の「科学的介護」というスローガンは声だけのものと言われても仕方がなくなるだろう。そしてこうした問いかけを無視して、あの介護力向上講習会を今の方法(個別のアセスメントを抜きにして、利用者全員に食事以外で1日1.500mlの水分摂取を行うということを全施設に行わせようとする方法)で続けるならば、老施協そのものの見識が問われるだろう。

老施協委員からは、ガバメントの意識に欠ける社会福祉法人の問題点を指摘されたが、それでは介護力向上講習会で、1日1.500mlの水分摂取を行うことについて、「利用者同意など必要ない。施設の方針として実施すればよい。」と教え、それを実施している事実があるが、それのどこにガバメントやコンプライアンスという視点が存在するのだろうか?

ガバメントが大事というなら、「家族がこの理論を理念としている施設に入所していました。本人が水分を1.500ml飲めないと職員が朝礼等で上司から叱られる為、父にお茶ゼリーを毎食事、口の中に流し込まれ、父は泣きながらそれを飲み込んでいました。この行為は虐待に値すると思います。水分の大量摂取で血圧上昇が懸念される為、過剰な摂取はやめてほしいと施設に何度もお願いしましたが聞き入れてもらえず、就寝前や就寝中も水分補給と称して起こされては水分補給されている父がかわいそうでした。でも施設に言うと脱水になってしまうの一点ばり。水分の過剰摂取は間違いであるということが早く世間に知らされてほしいです。 」という声にどのように答えるのか、こうした事実があることと、科学的介護やガバメントを推し進める事とどのように整合性がとれるのか?

このことを明らかにしていく必要があるのではないだろうか。

そもそも老施協はスローガンにとらわれ過ぎではないだろうか。我々が本来目指すものは、利用者の豊かな暮らしを実現する高品質サービスの実現であり、それは全国老施協も主張していることであり、そのことに間違いはないのであるが、それを実現するためのスローガンにとらわれて、いつしかスローガンである言葉に支配され、その向こうに実現できるはずの「暮らし」をスローガンの中に埋没させてしまい、暮らしを豊かにする正しい水分摂取を行うことより、水分摂取そのものが目的化され、利用者の生活の質が無視されているのではないだろうか。そもそも個別性の高い暮らしの援助の中で、一つの方法が全てのケースに通用すると考えることの方がどうかしている。

排泄ケアにしても、トイレで排せつできる暮らしを目指すことは間違っていないものの、その方法論が問題で、内蔵ダメージを無視した過度な水分摂取で、細胞内液量を超えた水分を対外排出させることによって尿量を増やして、それをターゲットにしたトイレ誘導を行っておれば良いという事では、暮らしは豊かにならない。

トイレでの排せつにしても、便器に不安定な姿勢で座り、腹圧をかけるには無理がある姿勢で、10分も20分も座り続けた結果、なんとか尿が出たという暮らしは、適切な排泄ケアと言えるのかどうか・・・。オムツゼロも大事かもしれないが、オムツをゼロにした結果、どのような排泄ケアが行われ、それが暮らしの豊かさと言える状態に結びついているのかという検証が必要で、オムツをゼロにした施設が、必ずしも高機能施設であるとは言えないという考え方も必要である、

つらく苦しい姿勢でトイレでの排せつをさせられている状態や、苦しい表情を無視して、施設の方針として一律決められた量の水分を摂取しなければ1日を終える事ができないという状態は、利用者の求める暮らしではない。

そこで行われている行為は、まさに『支援という名の支配』そのものではないのだろうか?(明日に続く)

(3月6日:追記)
なお勘違いしてほしくないのは、僕は竹内理論の全てを否定し、問題視しているわけではありません。水分摂取が大事なことは間違いなので、そのことを介護力向上講習会で伝えることは大事だと思います。しかし個別のアセスメントのない、一律1.500mlという、あまりに多すぎる量に対する見解の相違なんですから、介護力向上講習会で、水分摂取が大事であることには変わりないけれど、我々より身長が低くて、不感蒸拙の少ない現在の特養入所高齢者については、個別のアセスメントを行って、1日に失われる水分量を計算して、その分をきちんと補給して下さいとし、1日に排出する水分量を導き出す方法を教えるだけで解決する問題ではないかと思います。

水分の過剰摂取による内臓ダメージで入院を余儀なくされる高齢者が一人でもいるということは問題で、様々な施設の職員が、そのことを問題視しているのに、竹内理論の全てを信じる施設長等の管理者により、やり方が変わっていなくて水分過多症状が出ている現状は問題ではないでしょうか。

ただ鹿児島会場で受講された方の中で講習受講者が居りましたが、1.500mlという数字を無視して、いいところどりをしている賢い施設も多くて、やや安心しております。

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