皆さんは、「ひとり死」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

聞いたことがない人でも、これから、「在宅ひとり死」という言葉を耳にする機会が多くなると思う。今日はそのことについて、僕の考えを述べてみたい。

厚生労働省の資料の中に「死亡別場所、死亡者数の年次推移と将来統計」というグラフがあるが、これは短い期間に数値を変えた似たようなグラフが2通り示されている。このことについて、「どこで死ぬことができるかを考えなければならない社会」という記事で紹介している。

古い方のグラフで、47万人を看取るとされている「その他」とは、サービス付き高齢者向け住宅やグループホーム・特定施設であることもその記事で解説しているが、新しい方のグラフでは、死数が160万人を超える2030年に、それだけの数の人が「その他」に分類される場所で看取ることは困難で、対策を講じなければならないことが示唆されている。

そのためには、自宅での看取りケースをもっと増やさねばならないという結論に達するのは必然で、2013年4月に示された地域包括ケアシステムにおける今後の検討のための論点(地域包括ケア研究会)資料のなかには、次のような記述がある。

・毎日、誰かが訪問してきて様子は見ているが、翌日になったら一人で亡くなっていたといった最期も珍しいことではなくなるだろう。
・常に「家族に見守られながら自宅で亡くなる」わけではないことを、それぞれの住民が理解した上で在宅生活を選択する必要がある。


これは一体どのような状況を想定して書かれている文章なのかを考えてみると、この資料は、地域包括ケア研究会の資料であることが、そのヒントになるであろう。つまり看取りの場が確保できない人が大量に出ないように、在宅で死ぬことができる人を増やす必要があり、在宅で死ぬことのできる条件を考え、それに向けた新たな施策が必要になってきているが、施策を講じたからと言って、死の瞬間、そこで自分を看取ってくれる他者が存在しないで息を引き取るというケースも増えるだろうし、それも人の死のあり方として認めていこうというものだろう。

地域包括ケアシステムとは、簡単に言えば、日常生活圏域で、急性期入院を除く医療・介護・予防・住まい・生活支援サービスを一体的かつ適切に利用できる提供体制を全国につくるというものである。24年の制度改正では、在宅介護の限界点を引き上げて、要介護高齢者が地域での暮らしを継続できるように、「地域包括ケア」の仕組みを支える基礎的なサービスとして「定時巡回・随時対応型訪問介護看護」が位置づけられた。

この時、同時に「高齢者住まい法」を改正し、新たにサービス付き高齢者向け住宅を新設しているが、地域包括ケアが全国津々浦々で機能するためには、特に人口密度の少ない地域において、要介護高齢者がサービス付き高齢者向け住宅に住み替えて、そこに外付けの「定時巡回・随時対応型訪問介護看護」という介護サービスを貼り付け、24時間見守ることによって、死の瞬間を看取ることも含めた終生介護の仕組みを構築しようとしたものである。

同じように自宅で亡くなる場合にも、訪問診療と共に、「定時巡回・随時対応型訪問介護看護」を利用しながら、24時間の巡回によって、在宅での看取りを推進しようとするものだ。

しかしサービス付き高齢者住宅であっても、住み慣れた自宅であっても、この形は必ずしも最期の瞬間を看取る人が傍らにいるということにはならず、息を止める瞬間を誰からも看取られず、ひとりで旅立っていくというケースが増えることを意味し、「地域包括ケアシステムにおける今後の検討のための論点」の記述内容は、まさにこのことを示したものであり、そのことは必ずしも否定されるものではないとしているのである。

つまり24時間巡回サービスを組み込むことで、死の瞬間に誰かが看取っていなくとも、それは孤独死ではなく、ひとり死となるということが、今後強調されていくという意味である。

そうした考え方を広めるためかどうかは分からないが、最近とみに目立ってきているのは、「在宅ひとり死」をテーマにした講演会である。在宅でも周囲に支えられて死ぬのは「孤独死」ではないとして、「在宅ひとり死」を推奨する講演会等が各地で開かれている。孤独死と、ひとり死は違うというのである。息を止める瞬間に看取る人がいなくとも、在宅で最期の時間を過ごすことを、医師や訪問看護師、介護サービス従事者などを含めて周囲の人々が支援できる体制があれば孤独ではないという考え方で、そこで求められるのは、24時間対応可能な訪問医療と訪問看護と訪問介護であるとされている。

確かに様々な終末期の過ごし方があってもよいだろうと思う。その中には、死の瞬間をひとりで過ごす時間の中で迎えることがあってもよいだろうとは思う。しかしそこで死の瞬間をひとりで迎えるという覚悟が看取り介護対象者自身にあるのかということが問題で、ひとり死を推奨する学者や、訪問医師による勝手な判断で、支援さえできておれば、定期巡回さえ組み込んでおれば、それはひとり死なのだから問題ないという価値観を一方的に押し付けられても困るわけである。

大事なことは、それでも良いのかという本人の意思確認だろう。それがされずに、看取り介護対象者ではない誰かの勝手な思い込みだけで、ひとり死を推奨するようなキャンペーンになっては困るということである。

ひとりで死の瞬間を迎えることが孤独死でないかどうかを決めるのは、死に行く人自身であり、訪問医師も、24時間巡回サービス従事者も、ひとり死は孤独死ではないんだという価値観を押し付けるような態度は、厳に慎むべきである。

最期の時をどう過ごすのかという選択肢が広がることは良いことだとは思うが、孤独死と、ひとり死の違いを、もっと明確にしていかないと、強いられたひとり死=孤独死ということが大手を振ってまかり通るように思える。それは特養で看取っていると言いながら、死の瞬間を誰も看取らず、いつ息がとまったかもわからない「施設内孤独死」が存在するのと同じ状況ではないのだろうか。

愛する人の最期の瞬間を見守ることで、命は輝いてリレーされるということを、安易に放棄する社会だけは認めたくはない。ひとり死という言葉を便利使いして、孤独死の実態をごまかすようなことにならないかという検証作業は常に必要である。

少なくとも僕の施設では、「寂し看取りは嫌だ」というコンセプトを捨てずに、息を止める瞬間、手を握って看取る誰かがいることを目指す看取り介護でありたいと思うし、その時に僕の施設の全ての職員が、傍らにいることが許される者となっているように、看取り介護になる前から、日常的に利用者から信頼を得ることができる人になるために、日常のケアを充実させていかなければならないと思う。

ひとり死が孤独死でなくなるためには、そういう不断の努力が不可欠だ。形ばかりをとりつくろって、ひとり死という言葉だけが先行し、孤独死の実態を隠すための、「在宅ひとり死」が巷(ちまた)にあふれないことを切に望む。

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